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明日は「立冬」 [かわうそ@暦]

□明日は「立冬」
 今日は節分、明日は立冬。暦の上では明日からもう冬です。立冬とは、太陽中心が視黄経 225度を通過する日。旧暦十月節。八節の一つ暦の上での四季の区切りの日の一つです。ちなみにこの四季の区切りの日は、立冬の他に、立春、立夏、立秋といずれも「立」がつくことから、まとめて四立(しりゅう)とも呼ばれます。「立」の文字は、出立という使い方と同じ用法で、出発、門出といった意味で使われます。この四立の仲間、立春や立秋の日には毎年決まったように

  暦の上では立春とはいえ、まだ寒さは厳しく・・・
  立秋とはいえ暑さは一向に衰えず・・・

 といった言葉がTVのお天気コーナーで聞かれます。毎年同じように繰り返し使われるので「暦の上では」と聞いただけで次に続く言葉が予想出来てしまうほどありふれた言い回しとなっています。春、秋は過ごしやすい季節ですから、立春・立秋はそうした過ごしやすい季節の入口に立ったという感じを受けますから、待ち望んだ季節が早く来い来いという思いが先立つのでまだ来ないの?という、待ち遠しい表現になるのでしょう。これに引き替えといいますか、立冬に関しては暦の上では立冬とはいえ、まだまだ暖かくとはあまり聞いたことがありません。東京や京都などの立冬頃の一日の平均気温はおよそ13℃くらいですから、まだ「寒い」というほどではないような気もするのですが。この辺りは、寒い季節は出来れば来て欲しくない、来るとしても少しでも後になってくれたらいいなと言う思いがあるので、こんな言い回しはしないのでしょうね。私も寒い季節は出来れば来て欲しくないですしね。

◇立冬は観念的?
 暦の四立に二至二分(冬至・夏至と春分・秋分)を合わせて八節(はっせつ)と呼び、一年の重要な節目としています。この八節のうち二至二分の部分には、天文学的な意味があります。例えば、冬至は太陽の南中高度が一番低くなり、一日の昼の長さも最短になるという節目らしい節目です。ところがこうした二至二分に対して八節ののこり四つ、四立にはそうした特別な意味はありません。ではどうして生まれたのかと考えると、これは二至二分が確立された後で、観念的な「節目」としてくわえられたのでは無いかと私は考えています。二至二分は、の「至」は行き着くところ、到達点を意味しますし、「分」は二分する所という意味を持ちますからいずれも春夏秋冬という四季それぞれの盛り、中点を意味する言葉と考えられます。四季それぞれの中点が何処にあるかはこの二至二分でわかりますが、では四季それぞれの期間というのはいつからいつまでと考えたとき、季節と季節を分ける明確な自然の線引きというものが存在しません。あたりまえといえばあたりまえのことですが、季節は少しずつ変化して行くもので、ある日を境として急に季節が変わるわけではないのですから。ただ暦はそうしたとらえどころのない変化を何とかしてとらえて「目安」を与えるという役割がありますから、何かの方法で境界線を引かなければなりません。そこで考えられたのは、天文学的にも意味のあるはっきりした日付の決まる二至二分が四季それぞれの中点であるのなら、中点と中点の中間地点が境界線だと考えることが出来ますから、二至二分が確定した後でこの間を更に二分した点を四立としたのでしょう。四立は人間が観念的にとらえた季節の区切りの日なのです。暦は季節の変化を表すために作られたものではありますが、よく見てみるとその季節変化とは必ずしも実際の季節変化ばかりではなくて、人間が季節とはこうあるべきと考えた観念的な季節の変化のこともあるのです。立冬は、こうした観念的な季節の節目ですが、さてこの観念的な冬の始まりに実感する冬の始まりが追いつくのは何時のことでしょうか。まあ、気温20℃を割り込んだらもう冬だと勝手に思っている私にとっては、暦の上の観念的な立冬の日付は早すぎるどころか、遅すぎるくらいなのですが。皆さんにとっての実感的な「立冬の日」はいつ頃でしょうか?(「2019/11/07 号 (No.4786) 」の抜粋文)

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