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本と地ビールの日 [かわうそ@暦]

□本と地ビールの日
 今日は何を何を書こうかと考えていたら、記念日データに面白そうな記念日が並んでいたので、ゆる~く記念日からネタを書いてみます。

◇「本の日」関連の記念日
 4/23の記念日データを見ると

 ・サンジョルディの日
 ・世界本の日
 ・こども読書の日
 ・世界図書・著作権デー(World Book and Copyright Day)

 と本に関係した記念日が並んでいます。「世界図書・著作権デー」に関しては定かではありませんが、制定の経緯や時期などから考えて他の記念日はどうも「サンジョルディの日」関連として生まれたのではないかなという気がします。そんなわけで、他の記念日誕生のきっかけになった「サンジョルディの日」について、この日がどんな日なのかを書いてみましょう。

 「サンジョルディの日」はキリスト教の聖人、聖ゲオルギウスの祝日です。聖ゲオルギウスはイングランド、グルジア、モスクワ、カタロニア地方(スペイン)などの守護聖人となっています。聖ゲオルギウスの祝日なのに何故サンジョルディの日なのかですが、これはカタロニア地方での聖ゲオルギウスの呼び名が Sant Jordi(サン・ジョルディ)だからだそうです。さて、この聖ゲオルギウスですが、何か本と関係有るかとこれが全然見あたりません。伝説では白馬にまたがった騎士で、人々に害悪をもたらしたドラゴンを退治した事で知られた勇猛な聖人なのです。うう、本の話は?カタロニアでは「サン・ジョルディ」はその地方の守護聖人の祝日ですからお祭りであるのはわかりますが、直接この守護聖人と本とは関係が無さそうです。ではなぜ本の日となったかというと、登場するのがスペインが生んだ大作家、ミゲル・デ・セルバンテスです。セルバンテスってだれ?という方も多いと思います(私も)がドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(ラマンチャの騎士ドン・キホーテ)を書いた作家といえば「あ、なるほど」と思い出していただけるのでは?4/23はこのセルバンテス(1547/9/29~1616/4/23)の命日でした。スペインの生んだ偉大な作家の命日がたまたまサン・ジョルディの祝日であったことから、この日がスペインでは本の日となり、これに日本の人々(本屋さんとか文科省とか)が乗っかったというところでしょう。ちなみに『「世界図書・著作権デー」に関しては定かではありませんが』と書いた記念日も、おそらくセルバンテスの命日と関係があるとおもいます。ただし、スペインの大作家であったとはいえ、セルバンテスの命日だけで世界が動いたかというと、それはちょっと無理があるかも。でも大丈夫、世界を動かす強力な助っ人(「世界的」にみると、助っ人じゃなくて主役かな?)がいるのです。その人の名はシェークスピアなんと4/23は史上最大の文豪といわれるシェークスピアの誕生日であり、命日でもあったのです(1564/4/23~1616/4/23)。「サンジョルディの日」から「世界本の日」を考えると最初にセルバンテスの名が浮かびますが「世界本の日」だけで考えると、シェークスピアの命日だからという方がありそうな気がしますね。何はともあれ、1616/4/23は海を隔てたスペインとイギリスに生まれた2人の文豪の命日ということで、4/23に本に関係した記念日がならぶことになりました。

◇地ビールの日&ビールの日
 「読書もいいけど、最近は急に暑くなってきたから・・・」というあなたに与えられたもう一つの記念日、それは「地ビールの日」。ちなみにこの日は、ドイツでは「ビールの日」だそうで、日本の「地ビールの日」はこれにあやかったものでしょう。なぜこの日が「ビールの日」なのかというと「ビールとは何か」という、なんだか高遠な哲学的命題にも思えるビールの定義が定められた日だからなのです。「ビールとは何か」という定義が定められたのは1516/4/23。今から500年も前のことです。時のバイエルン国王ウィルヘルム4世が「ビールは、麦芽・ホップ・水のみを原料とする」とした「ビール純粋令」(ドイツ語では Reinheitsgebot)という法律でビールとは何かを示したのでした。後に醸造技術の進歩があって、上記の3種類の原料以外に酵母を加えることも認められたので、最終的には「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」となっています。変な法律のようにも感じますが、ビールの品質維持、価格の安定化、税収の確保、主食となるパンの材料である小麦の使用を禁止することでの食糧確保など、様々な問題の解決策として考え出された法律だったのでした。ちなみにこの「ビール純粋令」は何度かの改定を経ながらの今でもドイツの酒税法の中に生きており、食品成分を規定した現在も有効な最古の法律とされているそうです。そういわれると、なんだかありがたい感じがしてきましたね。

◇さて、あなたはどちら?
 今日は「世界本の日」に「地ビールの日」。さてあなたはどっちの日?もちろん、ビールを飲みながら読書したって問題ありませんから、両方ともというのもありますね。

  1.世界本の日
  2.地ビールの日
  3.両方!

 皆さんの過ごし方、知りたいですね。以上、「本の日」と「地ビールの日」だった4/23の暦のこぼれ話でした。

                          (「2024/04/23 号 (No.6415) 」の抜粋文)
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【雁書】(がんしょ) [かわうそ@暦]

【雁書】(がんしょ)
 手紙。書簡。→かりのつかい 《広辞苑・第六版》

 4/9~4/13の七十二候は清明の次候「雁水へ帰る」で雁の渡りの時期ですので、本日のコトノハでは雁の渡りに関連する言葉として「雁書」を採り上げてみました。

 ※4/9~4/13は2024年で計算した結果です。

 「雁書」は紀元前2~1世紀にかけて生きた前漢王朝の官僚、蘇武の故事から生まれた言葉ですが、御覧のとおり辞書の語釈は期待したものより大分シンプル。少々寂しすぎる短い説明でした。流石にこの短い語釈を元に話を膨らませるのは辛いなと感じましたので、同じ故事から生まれた「雁」を用いた「雁の使」という言葉も引いて、援用してみます。

【雁の使】(かりの つかい)
[漢書蘇武伝](前漢の蘇武が匈奴に使者として行き久しく囚われた時、蘇武を帰国させるために、「蘇武からの手紙が天子の射止めた雁の脚に結ばれていた」と使者に言わせて交渉したという故事から)消息をもたらす使いの雁。転じて、おとずれ。たより。手紙。消息。雁書(がんしょ)。万葉集8「九月(ながつき)のその初雁の使にも思ふ心は聞え来ぬかも」 《広辞苑・第六版》

 こちらの方は程よい長さで、蘇武のことにも雁書にもふれてくれている有り難い語釈。助かります。ではこの「雁の使」の語釈も踏まえて雁書にまつわる故事を語ることにいたします。蘇武は前漢の武帝の時代、北方の大敵、匈奴(きょうど)への外交交渉の使者として送られた人物です。蘇武はそこで匈奴(と匈奴に投降した漢の武将)のゴタゴタに巻き込まれ、匈奴に投降するか、死ぬかの二者択一を迫られることになりました。このとき蘇武は投降を拒んで死を選びました。こうして蘇武は死刑となる日を待つ身となりました。ただ匈奴側にしても外交使節として派遣された蘇武を処刑しては、その点を漢に責められてしまうので、直接死刑とはせず「蘇武は自然に死んだ」という体をとることとし、蘇武を穴蔵のような牢獄に閉じ込め、食べ物も水も与えられませんでした。蘇武は漢の使節を表す飾り物を口に入れて餓えをしのぎ、牢の前に降り積もった雪をかじって乾きをいやしながらなんとか命をつなぎます。こうしてなんとか生きながらえていると、いつまでも死なない蘇武をみて、警備の匈奴兵らは

  この人は人間ではなく、神かもしれない?

 と思うようになり、密かに供え物をするようになりました。また既に投降した漢人たちも密かに援助を行うようになったことで、蘇武はどうにか生きながらえることが出来ました。当初のもくろみと違って蘇武がいつまでも死なず、またこんな苦しい境遇になっても投降するとは言わないので、困ってしまったのは匈奴でした。自然に死んだことにしたい蘇武を幽閉していることを後から来た漢からの使節などに見られては拙いので蘇武を漢から遠い現在のバイカル湖の畔の地に移して、羊を何頭か与えてこの羊が子を産んだら、漢に返してやると言い渡しました。もちろん匈奴は蘇武を漢に返すつもりなどありませんでしたから、このときに蘇武に与えられた羊は全て牡でした。羊が全部牡ばかりですから、もちろん羊が子を生むことはありませんでしたが、とりあえずすぐに殺されることだけはなくなった蘇武は、バイカル湖畔の荒れ果てた地で草の実を採り、野ネズミを捕まえるなどして19年の間、生き続けました。この19年の間に漢は武帝の時代から次の昭帝の時代となっており、匈奴との間にも和睦が成立していました。そんな頃、とうに死んだと思われていた蘇武が今も匈奴の地で囚われ、生き続けているという情報を漢に届ける者がありました。漢は速やかに蘇武を生還させるように求める使者を匈奴に送りましたが匈奴は「蘇武は死んでいる」の一点張り。そこで使者は一計を案じ「実は先頃、陛下が狩をなさり、その時射止めた雁の足に『蘇武は沼の中にいる』と書かれた絹の切れ端が結びつけられていたのですよ」と詰め寄ったのです。この計略が上手くいって「バレている」と悟った匈奴は蘇武をバイカル湖のほとりから連れ戻し漢に返しました。19年ぶりに漢に帰還した蘇武の髪や髭は既に真っ白で、長い間の苦労の間に風貌も変わってしまっていましたが、その手には君命を帯びた日に渡された外交使節の証である「節(せつ)」が握られていました。「雁書」や「雁の使」は、この蘇武の故事から生まれた言葉で遠く離れた人の音信を伝える物を表すものとなりました。冬が終わり春が訪れると、寒さを避けて南の地に渡っていた雁が、北の住処へ帰って行くようになります。南から北へと渡ってゆく雁たちは、春の訪れを知らせる季節の使いでもあります。北へ渡る雁の中には、その足に「春はここまでやってきました」と書かれた絹の切れ端が結びつけられた雁がいるかもしれません。

                          (「2024/04/12 号 (No.6404) 」の抜粋文)
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【弥生】(やよい) [かわうそ@暦]

【弥生】(やよい)
 (イヤオヒの転) 陰暦 3月の異称。春の季語。古今和歌集恋「やよいのついたちより、しのびに人にものら言ひてのちに」 《広辞苑・第六版》

 今日、2024/04/9は旧暦では三月、弥生の朔日です。弥生は和風月名と呼ばれる、伝統的な月名の一つ。和風月名の多くは、日本が原始的な自然暦を用いていた時代に生まれた名前だと考えられます。そのため、その名前は人々の生活や自然の変化などを直接読み込んだようなものがあります。この「弥生」という名称もそうしたものの一つ。

 ※和風月名の話 http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0102.html

 「弥生」の語源説には、
 1.クサキイヤオヒツキ(草木弥生月)の略。イヤオイ(弥生)の義。
 2.ヤヤオヒ(漸々成長)の約。ヤヤオヒヅキ(漸生月)の義。
 3.桜梅の盛りであるところから、ヤウバイの反ヤヒの転か。
   《日本語源大辞典より、抜粋》

 文字として記録が残る以前から言い習わされてきた言葉でしょうから、和風月名の語源については様々な説が有るものですが、その点からいうとこの弥生は大変に「異説」の少ない言葉です。幾つか説があったとしてもいずれも植物が生長する様を表した言葉という点で一致しています。冬の間、寒さに耐えていた植物が、春になって一斉に動き出す様は異説が入り込む隙がないほど印象的なものだったようです。自然が少なくなったといわれることの多い昨今ですが、都会の真ん中であっても気をつけてみれば、草木弥生月の姿を見つけることが出来るはずです。

                          (「2024/04/09 号 (No.6401) 」の抜粋文)
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【お釈迦になる】 (おしゃかになる) [かわうそ@暦]

【お釈迦になる】 (おしゃかになる)
 取り返しがつかなくなる。使い物にならなくなる。不良品をだす。

 1.鋳物職人がお地蔵様をつくるつもりで誤ってお釈迦様をつくってしまったことからという。
 2.人が死ぬことをお釈迦になるということ。
 3.焼き物をつくる際、火が強すぎて不良品を出したとき、江戸訛りで「シがつよかった」と発音し、
  その「シがつよか」を四月八日に当て、この日が釈迦の誕生日(花祭りの日)なので、
 「お釈迦になる」が不良品を出すの意味になった。《成語林》より

 今日の記念日データなどを集めて入力していると、けっこう「語呂合わせの記念日」があります。語呂合わせの記念日の中には、それはないだろうと思うものも多く、あまり好きではないのですが、この言葉の語源 3に書かれているような、ひねりの利いた語呂合わせは好きです。

「シ(ヒ、火)がつよかった」から 4/8、 4/8から花祭り、花祭りは釈迦の誕生日という連想は見事。

 この語源 3を知ったのは、小学校の高学年か中学校に入ったばかりの頃だと記憶します。私の場合、この説を知るまで、4/8がお釈迦様の誕生日だと知りませんでした。そして以後ずっと、「お釈迦になる」という言葉を見たり聞いたりする度に、4/8の花祭り(灌仏会)を思い出すようになりました。この記事を書いているのは4/8。お釈迦様の誕生日である灌仏会、花祭りの日です。灌仏会、花祭りについては既に昨日書いておりますので本日は少し目先を変えて、今日の日付から生まれたとも言われる「お釈迦になる」という言葉を採り上げることにしました。いかがだったでしょうか?もしかしたら今回の記事で私と同じように「4/8はお釈迦様の誕生日」だということが刷り込まれる方が何人かはいるかも?そうだとしたら嬉しいです。お釈迦様も喜んでくださるかもな~。

                          (「2024/04/08 号 (No.6400) 」の抜粋文)
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花祭り(灌仏会)・2024 [かわうそ@暦]

■花祭り(灌仏会)・2024
 明日は四月八日、花祭りの日です。花祭りは、仏教では重要な行事で灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)ともいいます(他にも、降誕会、仏誕会、誕生会、龍華会などの呼び名があります)。呼び名はいろいろですが、要は仏陀となられた釈迦がお生まれになった日を祝う行事です。

◇花祭りの日付
 花祭りの日付は「四月八日」ですが、これを新暦、月遅れ、旧暦と違った暦の日付で祝うため、地域により花祭りの時期が変わります。関東は新暦の 4/8。関西は月遅れの 4/8、つまり 5/8に行うのが現在では一般的なようです。中には「旧暦の日付で行うのが正式」と仰る方もいるのですが 4/8という日にお釈迦様が生まれたという伝説から、この日付を記念日として祝っているので、新暦とか旧暦とかを問題にするのはどうかと思います。お釈迦様が生きた時代(そして入滅した時代)とお釈迦様暮らした国でどんな暦が使われていたかは定かではありませんが、それが新暦(グレゴリウス暦)でないと言うことは当然。そしていわゆる旧暦といわれる暦でなかったことも、まず間違いの無い事実です。「昔の出来事だから、なんでもかんでも旧暦の日付けが正しい」という間違いです。釈迦誕生の伝説から判るのは、何かの暦で表した日付けが「四月八日」であったということだけ。新暦と旧暦の問題にしてしまうのはおかしいのです。

◇花祭り(灌仏会)の始まり
 『四月の八日、七月の十五日に設斎(おがみ)す』という記述が日本書紀、推古天皇十四年(AD 606)の条に書かれているのが日本における灌仏会の最初の記録だそうです。七月十五日というのは盂蘭盆会のことです。灌仏会は中国で生まれた行事だと考えられますが、この記述をみると、盂蘭盆と並んで日本における最古の仏教行事であると云うことが出来そうです。

◇花祭りの行事といわれ
 花祭りの行事といえば、花々で飾られて花御堂(はなみどう)を作り、その中に置かれた灌仏盤(かんぶつばん)または、浴仏盆(よくぶつぼん)と呼ばれるものの中に誕生仏を安置し、参拝者が竹の柄杓でこの誕生仏に甘茶を注ぐ。というようなものです。それぞれのお寺により違いが有るでしょうが、大体はこんなところでしょう。花御堂は釈迦が誕生したルンビニの花園を表しています。また、甘茶を誕生仏にかけるのは、釈迦の誕生を祝って九頭の龍が天から甘露を注いで産湯を使わせたという故事にちなむと言います(経典によっては龍の代わりに梵天や帝釈天だったりします)。つまり甘茶は、龍が注いだ甘露の代わりということです。平安時代は五種類の香料から作られた五色水(ごしきすい)を注いだといいます。五色水が甘茶に代わったのは江戸時代のことといわれます。このように、甘露に見立てた甘茶や五色水を誕生仏に注ぐことから、「灌仏会」と呼ばれます(「灌」は、注ぐの意味)。参拝者は帰りにこの甘茶を水筒(昔は竹筒の水筒)に詰めて帰ります。この甘茶を飲むと厄除けの効果があるとか。甘茶は漢方薬である甘草(かんぞう)で作るそうなので体にもよさそうです。

◇「花祭り」といわれる理由
 花祭りは、花御堂を造って誕生仏を祭ることから付いた名で、聖徳太子の時代からそう呼ばれたと言いますが、一般化したのは大正時代以後だと言われます。切っ掛けになったのは大正 5年から仏教関係者連合が日比谷公園で花祭りを実施し、年中行事としたことによると言われています(それ以前にも仏教青年伝道会等が「花祭り」を実施していた)。仏の誕生を祝う行事であるためか、子供を中心とした行事が多く、その意味で「灌仏会」なんて言ういかめしい名前より「花祭り」という柔らかな名称が好まれたとも考えられます。何はともあれ明日、四月八日はお釈迦様の誕生日。みんなでお祝いしましょうね。

                          (「2024/04/07 号 (No.6399) 」の抜粋文)
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【晩方】(ばんがた) [かわうそ@暦]

【晩方】(ばんがた)
 ゆうがた。くれがた。 《広辞苑・第七版》

 ある噺家さんが枕(落語等の導入部分に入れる前置きのような話)のなかで「晩方」という言葉を使うのを耳にしました。「晩方」とはまた懐かしい言葉だなと感じ、印象に残ったので本日は早々とこの言葉を採り上げることにしました。「晩方」はその昔、親の世代が話す言葉の中に頻繁に現れたので、子供の頃の私にはなじみのある言葉でしたが、今では懐かしいと感じるほど使うことも耳にすることも減った言葉の一つです。自分自身を顧みると、おそらく40年くらいは、この言葉を使ったことがないと思います。広辞苑の語釈に現れる「ゆうがた(夕方)」は今でも頻繁に使います。「くれがた(暮れ方)」もたまに使いますので

  晩方 = 夕方,暮れ方

 であれば、同じ意味の言葉で入れ替えていると言うことも出来るのですが、私の中では晩方と夕方、暮れ方がどうしても同じには思えず、辞書の説明はどうもしっくりきません。座り心地のよくない椅子に座っている感じです。「夕方」は日の光があるか日没後でもその光がわずかに残っている時間帯を指す言葉。「暮れ方」は日没に近い夕方の一部の時間帯で、晩方はそれより遅い時間、夕方と呼ばれる時間帯の最終版の日の光がほぼ消える頃以降の時間帯。ただしあまり遅い時間は含まないので「夜」という言葉とも違う言葉のように私には感じられます。私の語彙の中で「晩方」に近い時間帯を指す言葉を探すと「宵の口」が引っかかるのですが、意味的には近く感じますが、「宵の口」ではなんだか洒落すぎていて、晩方に感じる素朴さのようなものが感じられません。もちろんこれも私の感覚ではですけれど。噺の枕に「晩方」という言葉を枕に使った噺家さんは、お若いですけれど古典落語を得意とする方なので、枕の中でもこうした言葉がすんなりと出てくるのでしょう。おかげで年寄りの久々に懐かしい言葉にふれることが出来ました。「こんな言葉は、無くしたくないな」自分では何十年も使ってこなかったことを棚に上げて、そんなことを考えながら落語を聴いている私でした。「晩方」、皆さんは使っていますか?

                          (「2024/04/06 号 (No.6398) 」の抜粋文)
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【桜色】(さくら いろ) [かわうそ@暦]

【桜色】(さくら いろ)
 桜の花のような色。淡紅色。「ほんのり桜色に上気する」《広辞苑・第六版》

 今は桜と言えば染井吉野の花、桜色も染井吉野の花の色を思い浮かべるようになってしまっていますが、桜色という言葉が生まれた時代の桜は染井吉野ではなくて山桜。山桜は白い花とともに紅色の若葉が現れ、同時に見えることから、まずは平安時代の貴族女性の衣装である十二単の色目の組み合わせとして「桜襲(さくらがさね)」が生まれました。元の花色に近い桜襲は「表白・裏赤花」という組み合わせであったといいます。この配色は、山桜の白い花と、その間から見える紅色の若葉の組み合わせを表したものでしょう。そして、白い花と紅色の若葉に彩られた山桜を遠望すれば、花と葉の色が混じり合って薄い紅色となり、これが桜色と呼ばれるようになったようです。桜色は布地の織色としては、縦糸(経、たて)を紅糸、横糸(緯、ぬき)を白糸で織ったものがもっとも桜色に近いとされます。染め色としての桜色は江戸の中期頃から広く使われるようになり、今に至っています。桜と関係する色名としては英名のチェリー(Cherry)、仏名のスリーズ(Cerise)がありますがどちらも、桜の花色ではなく、実であるサクランボの赤色を表す言葉です。所変われば品変わるといいますが、国が違えば「桜」で想像するものが花と実の違いがあるようです。想像するものが花と実の違いがありますから、桜の色の意味する色も、違ったものになるものなんですね。

                          (「2024/04/05 号 (No.6397) 」の抜粋文)
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エイプリルフール [かわうそ@暦]

□エイプリルフール
 本日は4月1日。 エイプリルフール。または万愚節と呼ばれる日です。「四月馬鹿」という言葉も有りましたが、今も使われるでしょうか?さて、この日は罪のない嘘をついて良い日とされ、欧米では新聞やTVニュースなどまでが手の込んだ嘘(おちの部分で笑えるようにしておかないといけませんが)を掲載・放送するようです。良くできた嘘については、種明かしの後、その「嘘のニュース」が流れたことが、またニュース(こっちは本当の)になるほどです。日本でこれをやったら、さて受け入れられるかどうか。笑って済ませてくれる人ばかりじゃないでしょうね。

◇エイプリルフールの始まり
 エイプリルフールの始まりは、1564年にフランスのシャルル 9世が 1/1を新年とする暦を採用したのがきっかけだといわれます。それまでヨーロッパの多くの国は伝統的に3/25を新年の始まりとしてこれから 1週間新年の馬鹿騒ぎをしたといいます。 4/1はこの馬鹿騒ぎが終った翌日で実質的年初ともいえます。それまで慣れ親しんだ年初の概念を覆すシャルル 9世の突然の年初変更は、民衆の間には強い反発を生み出しました。反発した人々は従来の実質的な年初となる 4/1を「嘘の新年」として馬鹿騒ぎをするようになり、これがエイプリルフールの始まりだといわれます。

◇3/25が年の初めという不思議
 エイプリルフールの始まりを書いたところで、皆さんが疑問に思いそうなことを一つ。それは、それ以前の新年が3/25日に始まるということ。何でこんな時期という気もしますが、これは昔からヨーロッパにおいては一年の始まりは春、春分の日付近に始まるという春分年初の考えがあったからです。この春分年初の考えはおそらく農耕の開始時期と一致して自然に生まれたサイクルだろうと考えています。発生時期は記録が残っていないほど古く、BC45年にユリウス暦が施行時に年初を古くからの3/25から 1/1に移動させたと有ることからも分かります。最低でも2000年以前には既に新年は3/25だと考えられていたようです。そしてこの慣習は古いだけでなく、大変根強いものでした。それはユリウス暦が暦の年初を 1/1と決定後1500年経っても、実生活ではまだ3/25が年初だと考えられていたということで分かります。それにしても25日とは大分半端な日付。これに関しては、おそらく原始的なヨーロッパの暦(ローマの暦)が太陰暦であっただろうということと、ローマでの特殊な日付の数え方とが関係していると考えています。私たちからすれば、おかしな日付での区切りでも、そういうものだと、ずっと使い続けていたら不思議には思わないかもしれません。(人間の大らかさに万歳!?)

◇「四月馬鹿」もう一つの由来説
  4/1が四月馬鹿と呼ばれる原因のもう一つの説はインドから。インドでは悟りの修行は春分の日から3月末まで行われていましたが、すぐに迷いが生じることから、 4/1を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もあります。エイプリルフールの今日、何か「上手い嘘」を考えてみましょうか。ただしくれぐれも、後々問題とならないように、「罪のない嘘」を。

                          (「2024/04/01 号 (No.6393) 」の抜粋文)
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年度のはなし [かわうそ@暦]

□年度のはなし
 今日で三月も終わりです。三月が終われば次は四月、新年度です。そんなわけで本日は、普段から何気なく使うこの「年度」について採り上げてみることにしました。普通「年度」という使い方をする場合は、官公庁や学校などの一年の区切りとして使われる 4月~翌年 3月までのことを指す公的機関の会計年度を指すようです。

◇二つの一年
 私は生まれたときから暦の上の一年と、この会計年度による一年がありましたから、特に疑問を持つこともなくこの「年度」というものを抵抗もなく受け入れてきましたが、よく考えてみるとなんだか不思議ですね。なぜ二つの一年が出来たのでしょうか? ずっと昔からそうだったのでしょうね?「昔からそうだったのか」と書いたところですが、この昔というのがどれくらい昔なのでしょうか? 私が物心ついた頃には既に存在した「年度」ですので、少なくとも半世紀以上は遡る必要があります。半世紀なんてけちなことを言わずに、一気に江戸の時代まで遡って見ると、この二つの一年はありませんでした。江戸時代は暦の一年も会計(?)の一年も一緒でした。江戸の昔に遡れば、年も押し迫った大晦日にその年の払いを払うの払わないので客と商家の手代との駆け引きが繰り返される何ていう光景が当時は普通だったわけです。とすると、大分絞り込まれてきましたね。江戸の昔と私に物心が付いた半世紀程前の間に、日本の年度(会計年度)というものが生まれたようです。

◇会計年度の誕生
 今のように暦年と異なった会計年度が生まれたのは明治に入ってからのことです。現在のように 4月~ 3月という形になったのは明治17年(AD1884)のことでした。ただし、会計年度自体はこの年より少し前から始っており、何度かの変更を加えられて明治17年にほぼ現在のような形に落ち着いたのです。現在のような形に落ち着くまでの会計年度の変遷の様子は以下のとおり。

  適用開始 明治 2年 9月~  期間:10月~翌年 9月
    〃  明治 5年11月~   〃:暦年と同じ
    〃  明治 7年12月~   〃: 7月~翌年 6月
    〃  明治17年10月~   〃: 4月~翌年 3月
    〃  明治22年 4月~   〃: 4月~翌年 3月(市町村)
    〃  明治23年 5月~   〃: 4月~翌年 3月(道府県)

 上記のうち、最初の 4つ(「明治17年10月~」というところまで)は中央政府が会計年度として採用した年と内容を表しています。随分くるくると変わっていますね。

◇会計年度が作られた理由
 暦年と異なる会計年度が作られた理由は次のように説明されています。

 1.主要な税である地租(ちそ)、つまり土地からの農産物の収穫による税の徴収のサイクルに会計
  のサイクルを合わせる。

 2.当時もっとも力のあったイギリスの会計年度(イギリスも 4月~ 3月)にならった。

 3.政府のとある事情

 一応は、1,2 のもっともらしい説明が有るのですが、考えてみると納得のいかない点があります。1.地租の徴収サイクルに合わせたという説明の納得いかない点江戸時代以前だって「地租」が主たる財源だったはずで、明治時代に入ってから大きな変化があった訳ではない。2.イギリスの会計年度に合わせたという説明の納得いかない点当時、世界で一番力のあったイギリスに合わせるというのなら、他の国々だって同様であるはず。でも会計年度はフランスは暦年と一緒だし、アメリカは10月~ 9月でイギリスとは異なります。なぜ日本はイギリスだけ特別扱いしたのかな?それにもし、1,2のようなまともな説明が本当の理由なら、なぜ何回も会計年度を変更しなければならなかったのかがわかりません。しかも明治17年の改正は市町村や道府県と会計年度がずれるというはなはだ不都合な状況を生み出しても断行した(明治17年に政府が 4月からの会計年度に移行した後も市町村等の会計年度はしばらく 7月からのままでした)理由が説明できません。おかしいじゃないか?こう考えてゆくと「3.政府のとある事情」が本当の理由だったのでは?ではその「とある事情」とは??こうした場合に考えられる「とある事情」といえば、思いつくのはお金がないってことでしょうね?お金が無いと支払いが出来ませんから、お金がないときには少しでも支払時期を先延ばししたいもの。お金のない明治政府も「決算時期」を先延ばししたいのですが、正直に「お金がない」というのはなんとも格好がよくない。で、この恥ずかしい理由を隠して最もらしく見せるために考えたのが1と2の理由ではないでしょうか?当時の明治政府は超高給なお雇い外国人を多数雇って、西洋技術を導入し、鹿鳴館を造って他国の外交官を接待して・・・とお金は出る一方で、財政は火の車でしたから「決算を先延ばし」したかったのでしょう。

◇それ以後
 こうして明治17(1884)年に生まれた会計年度は、田中(角栄)内閣時代に一度、「暦年と同じにしよう」という動きがありましたが、大蔵省(当時。現財務省)の強力な反対にあって改変はならず、今もそのままつづいています。まあ少々煩雑ですけどそれが当たり前と慣れてしまった私には、特に変える必要性を感じません。きっと私以外の人も会計年度の区切りの時期を変えることで起こる混乱と、変えたことによって得られるメリット(「合理的に見える」ってことくらいかな?)を天秤にかけて、変えないことにして今に至っているのでしょう。なお、これに関してもっと詳しく知りたい方は、Web こよみのページの暦とと天文の雑学の以下のページをご覧下さい。

  「役所の一年は4月から・・・会計年度のはなし」http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0880.html

                           (「2024/03/31 号 (No.6392)」の抜粋文)
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「シルクロードの日」と楼蘭 [かわうそ@暦]

■「シルクロードの日」と楼蘭
 「今日は何の日」のデータによれば、今日は「シルクロードの日」。これは、かつてシルクロードの要衝にあり、交易で栄えた都市、楼蘭(ろうらん)の廃墟が、中央アジアのタクラマカン砂漠の中に発見されたのを記念した記念日です。楼蘭発見の年は1900年(明治33年)でした。

◇楼蘭(ろうらん)とロプ・ノール湖
 楼蘭の名は中国の有名な史書、史記にも登場する都市で、史記によれば塩水を湛えた大きな湖(ロプ・ノール湖)の湖畔に栄えた城郭都市であったとされていましたが、その大きな塩湖とともに砂漠に姿を消して1900年当時にはどこにあったのかも解らなくなっていた都市でした。楼蘭があったと考えられたタクラマカン砂漠は、年間の降水量がわずか数mmに過ぎないという極度に乾燥した砂漠です。その「タクラマカン」という名前はウイグル語で「死の世界」を意味し、迷い込んだら生きては帰れない砂漠と怖れられた場所だったそうです。19世紀末当時、タクラマカン砂漠周辺は地球上に残された数少ない地理学的な空白地帯で多くの地理学者、探検家を引きつける場所となっていました。その地理学的空白地帯を埋めるべく、幾隊もの調査隊が向かいましたが、かつて「広大な塩湖、ロプ・ノール湖」があったことが、史記を始めとした古い文献には度々記述されているにもかかわらず、どの隊もその塩湖を発見することが出来ませんでした。実は、1876~1877年にこの地域を調査したロシアの調査隊は、タリム河の下流に二つの湖があることを発見し、これがロプ・ノール湖であると考えましたが、この湖は淡水湖であったことと古代中国の地図から推定される場所から、 400kmも離れた場所にあることから、ロプ・ノール湖とは別の湖であると考える者も多く、相変わらず、ロプ・ノール湖とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の存在は謎のままでした。

◇砂漠に消えたロプ・ノール湖とその復活
 ロプ・ノール湖の所在とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の謎は1900年にタクラマカン砂漠地帯を調査していたスウェーデンの地理学者、スヴェン. A.ヘディン(Sven.A.Hedin) が砂漠地帯で干上がった古代の湖の痕跡を発見し、次にその湖の痕跡の周辺から古代都市の遺跡を発見したことで、解かれました。この干上がった湖こそ、史記にその存在が記述されていた塩湖であり、古代都市の遺跡が楼蘭だったのです。ヘディンの発見は単なる偶然によるものではなく、ロプ・ノール湖があったと考えられる場所を縦断し、その高低図(断面図)を作れば、かつて湖であった場所があればその地形的な特徴が解るはずと考えを進め、調査した結果でした。ヘディンの予想は当たり、干上がった湖と思われる地形が見つかりました。そこからは塩の層や貝殻、それに湖畔に生えていたと思われる涸れた木の痕跡が見つかりました。そしていくつかの幸運があって、ロプ・ノール湖の湖畔に栄えたとされる楼蘭の廃墟も同時に発見できたのでした。この発見後も周辺の地形の調査を継続したヘディンは、失われた塩湖、ロプ・ノール湖の跡と、その 400km南にあるロシアの調査隊が発見した淡水湖の関係に気づきました。この地域一帯の標高差はほんのわずかなもので、河が流れれば水が運ぶ堆積物によって河床が高くなり、一方、強い風が吹きつける砂漠地帯は風による土砂の浸食によって低い場所が出来てゆきます。この傾向が長く続くのなら河はやがてその流路を変えるのではないかとヘディンは考えました。こうした河の流路の変化によって、かつてロプ・ノール湖であった湖への河水の流入が途絶え、ロプ・ノール湖は干上がり、新しく河水が行き着いた先に別の湖が出来たのではないか?そして、豊かな水を湛えたロプ・ノール湖が干上がると、水を失った都市、楼蘭も見捨てられ、砂漠に埋もれることになったのではないかと。発見当時は、干上がった状態であった、かつてのロプ・ノール湖でしたが、もしヘディンの考えが正しいのだとすれば、いつかまた河の流路が変わり、再び昔の姿を取り戻すかもしれない。ただ、こうした自然の変化は何百年、何千年どころか、何万年もかかる変化かも知れない。こうした変化を思いついたヘディン自身も、それが本当かどうか、確かめられる日が自分の命の続く間に起こるとは思っていなかったようです。ヘディンの考えはある点では正しく、そしてある点では間違っていました。ヘディンの発見からわずか21年後、砂漠地帯を流れている河が流路を変え始め、砂漠に消えた湖、ロプ・ノール湖が再びその姿を現したのです。これを知ったヘディンは、1934年に再びこの地を訪れ、いつかロプ・ロール湖が復活するだろうという自分の説の正しさと、自分の命の続く間に、それを確かめることは出来ないだろうという予想の誤りを知ることができたのでした。

◇余談
 「シルクロードの日」にかけて、中学生の頃にワクワクしながら読んだ、ヘディンの探検記の話などを思い出しながらこの記事を書きました。あの頃は、私もまだ純真だったななどと思いながら・・・最後に、残念なお知らせ。ロプ・ノール湖は、ヘディンが復活を目にした後、20世紀半ばまではその姿を留めていたそうですが、その後の気候の変化や河にダムが作られたことの影響などから、現在は干上がってしまっており、その湖底の跡に塩の層を残すばかりになってしまっています。
 ウィキペディア(日本語版)https://ja.wikipedia.org/ によれば、1959年には存在が確認されており、完全に干上がったのは1962年と推定されているとのこと。残念です。現在、GoogleEarthでかつてロプノール湖のあったあたりには、湖底痕とおぼしき地形(色かな?)と巨大な肥料プラント(塩田みたいなもの)が写っています。

                          (「2024/03/28 号 (No.6389) 」の抜粋文)
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