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「シルクロードの日」と楼蘭 [かわうそ@暦]

■「シルクロードの日」と楼蘭
 「今日は何の日」のデータによれば、今日は「シルクロードの日」。これは、かつてシルクロードの要衝にあり、交易で栄えた都市、楼蘭(ろうらん)の廃墟が、中央アジアのタクラマカン砂漠の中に発見されたのを記念した記念日です。楼蘭発見の年は1900年(明治33年)でした。

◇楼蘭(ろうらん)とロプ・ノール湖
 楼蘭の名は中国の有名な史書、史記にも登場する都市で、史記によれば塩水を湛えた大きな湖(ロプ・ノール湖)の湖畔に栄えた城郭都市であったとされていましたが、その大きな塩湖とともに砂漠に姿を消して1900年当時にはどこにあったのかも解らなくなっていた都市でした。楼蘭があったと考えられたタクラマカン砂漠は、年間の降水量がわずか数mmに過ぎないという極度に乾燥した砂漠です。その「タクラマカン」という名前はウイグル語で「死の世界」を意味し、迷い込んだら生きては帰れない砂漠と怖れられた場所だったそうです。19世紀末当時、タクラマカン砂漠周辺は地球上に残された数少ない地理学的な空白地帯で多くの地理学者、探検家を引きつける場所となっていました。その地理学的空白地帯を埋めるべく、幾隊もの調査隊が向かいましたが、かつて「広大な塩湖、ロプ・ノール湖」があったことが、史記を始めとした古い文献には度々記述されているにもかかわらず、どの隊もその塩湖を発見することが出来ませんでした。実は、1876~1877年にこの地域を調査したロシアの調査隊は、タリム河の下流に二つの湖があることを発見し、これがロプ・ノール湖であると考えましたが、この湖は淡水湖であったことと古代中国の地図から推定される場所から、 400kmも離れた場所にあることから、ロプ・ノール湖とは別の湖であると考える者も多く、相変わらず、ロプ・ノール湖とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の存在は謎のままでした。

◇砂漠に消えたロプ・ノール湖とその復活
 ロプ・ノール湖の所在とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の謎は1900年にタクラマカン砂漠地帯を調査していたスウェーデンの地理学者、スヴェン. A.ヘディン(Sven.A.Hedin) が砂漠地帯で干上がった古代の湖の痕跡を発見し、次にその湖の痕跡の周辺から古代都市の遺跡を発見したことで、解かれました。この干上がった湖こそ、史記にその存在が記述されていた塩湖であり、古代都市の遺跡が楼蘭だったのです。ヘディンの発見は単なる偶然によるものではなく、ロプ・ノール湖があったと考えられる場所を縦断し、その高低図(断面図)を作れば、かつて湖であった場所があればその地形的な特徴が解るはずと考えを進め、調査した結果でした。ヘディンの予想は当たり、干上がった湖と思われる地形が見つかりました。そこからは塩の層や貝殻、それに湖畔に生えていたと思われる涸れた木の痕跡が見つかりました。そしていくつかの幸運があって、ロプ・ノール湖の湖畔に栄えたとされる楼蘭の廃墟も同時に発見できたのでした。この発見後も周辺の地形の調査を継続したヘディンは、失われた塩湖、ロプ・ノール湖の跡と、その 400km南にあるロシアの調査隊が発見した淡水湖の関係に気づきました。この地域一帯の標高差はほんのわずかなもので、河が流れれば水が運ぶ堆積物によって河床が高くなり、一方、強い風が吹きつける砂漠地帯は風による土砂の浸食によって低い場所が出来てゆきます。この傾向が長く続くのなら河はやがてその流路を変えるのではないかとヘディンは考えました。こうした河の流路の変化によって、かつてロプ・ノール湖であった湖への河水の流入が途絶え、ロプ・ノール湖は干上がり、新しく河水が行き着いた先に別の湖が出来たのではないか?そして、豊かな水を湛えたロプ・ノール湖が干上がると、水を失った都市、楼蘭も見捨てられ、砂漠に埋もれることになったのではないかと。発見当時は、干上がった状態であった、かつてのロプ・ノール湖でしたが、もしヘディンの考えが正しいのだとすれば、いつかまた河の流路が変わり、再び昔の姿を取り戻すかもしれない。ただ、こうした自然の変化は何百年、何千年どころか、何万年もかかる変化かも知れない。こうした変化を思いついたヘディン自身も、それが本当かどうか、確かめられる日が自分の命の続く間に起こるとは思っていなかったようです。ヘディンの考えはある点では正しく、そしてある点では間違っていました。ヘディンの発見からわずか21年後、砂漠地帯を流れている河が流路を変え始め、砂漠に消えた湖、ロプ・ノール湖が再びその姿を現したのです。これを知ったヘディンは、1934年に再びこの地を訪れ、いつかロプ・ロール湖が復活するだろうという自分の説の正しさと、自分の命の続く間に、それを確かめることは出来ないだろうという予想の誤りを知ることができたのでした。

◇余談
 「シルクロードの日」にかけて、中学生の頃にワクワクしながら読んだ、ヘディンの探検記の話などを思い出しながらこの記事を書きました。あの頃は、私もまだ純真だったななどと思いながら・・・最後に、残念なお知らせ。ロプ・ノール湖は、ヘディンが復活を目にした後、20世紀半ばまではその姿を留めていたそうですが、その後の気候の変化や河にダムが作られたことの影響などから、現在は干上がってしまっており、その湖底の跡に塩の層を残すばかりになってしまっています。
 ウィキペディア(日本語版)https://ja.wikipedia.org/ によれば、1959年には存在が確認されており、完全に干上がったのは1962年と推定されているとのこと。残念です。現在、GoogleEarthでかつてロプノール湖のあったあたりには、湖底痕とおぼしき地形(色かな?)と巨大な肥料プラント(塩田みたいなもの)が写っています。

                          (「2024/03/28 号 (No.6389) 」の抜粋文)
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江戸の桜の咲くころ [かわうそ@暦]

□江戸の桜の咲くころ
 今朝、テレビのお天気コーナーで、東京の靖国神社にあると言う桜の標準木の花(まだ蕾?)の状況を中継していました。枝の先にはほんのわずかですが、咲いていると言っていいのかな・・・という花とも蕾ともつかないものが映っていました。今日明日中には開花宣言となるのかな? といった感じでした。この分で行くと今週末くらいにはちょっと気の早い花見が出来るくらいにはなりそうです。きっと、桜の名所は賑わうことでしょうね(東京在住でもないので、他人事ですが)。東京の花見の話題から、本日は東京が「江戸」と呼ばれていた時代の江戸の花見の時期の話を一つ。

 今も昔も、この時期になると多くの人が楽しみにしているのが花見。斎藤月岑の書いた『東都歳時記』の二月の項には江戸の花見の様子が描かれていますので、本日は東都歳時記にある、桜の見頃の時期を眺めてみることにしましょう。眺めるのが桜そのものではなくて日付けというところが、こよみのページですけどね。なお、本日活躍してくれる東都歳時記は天保九年(AD1838)に刊行された本で、江戸の昔の風俗を知る上で大変重宝な本です。

・彼岸櫻(ひがんざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山 山王、車坂、二ツ堂の前両側、四軒寺入口。寒松院の原犬ざくら
  其他、上野山中は彼岸櫻多し ・・・後略・・・

・枝垂櫻(しだれざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山(坊中に多し) 谷中日暮里 湯島麟祥院 根津権現社 小石川傳通院 
  大塚護持院 広尾光琳寺 ・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十日め頃より (新暦4/4頃)
 
  東叡山 谷中七面宮境内 駒込吉祥寺 小石川白山社地旗櫻 大塚護国寺
  小金井橋の両側 江戸より七里余りなり。・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十五日め頃より (新暦4/9頃)

  東叡山 飛鳥寺 ・・・中略・・・ 豊島足立の野径を見渡し、風景等尋常ならず。
   毎春遊観多し。王子金輪寺の前 ・・・後略・・・

・重弁櫻(八重桜 やえざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 谷中日暮里 諏訪社辺、田園の眺望いとよし。・・・中略・・・
  道灌山の辺雲雀多し。王子権現社辺瀧の川 根津権現社内 谷中天王寺 
  同瑞林寺 品川御殿山 ・・・後略・・・

・遅櫻(おそざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 浅草寺の千本ざくら、深川八幡の園女が歌仙櫻は今少し。
  以上家父縣麻呂が撰置る『花暦』の一枚刷りによりて日並を録す。

  且ここに記せしは、開きそむべき日並なり。真盛を見んとならば、これよりおくれて見るべきなり。櫻に限らず、開花の時候大概定りあれども、年の寒暖によりて、少しの遅速あり。・・・後略・・・

 東京の方ならなじみのある地名が結構あったのではないでしょうか。たびたび登場する「東叡山」は上野寛永寺の山号です。上野は当時から、東都(江戸)第一の桜の名所として有名でした。遅櫻の項の後にこれは開花の時期だと書いてありますから、花見の時期は今よりは多少遅い時期でしょうか。この辺は当時の桜と現在主となっている染井吉野の開花時期の差でしょう。

◇開花の時期は「立春からの日数」
 ごらんになって分かると思うのですが、開花の時期の記述は

  立春より○○日目頃

 と有ります。現在ならこんな回りくどい書き方はせずに、

  ○月×日頃

 と書くはずです。ちなみに前述の説明でも

  立春より○○日目頃 (新暦 M/D 頃)

 と()に日付けを入れたのは私。皆さんがその時期をイメージしやすいように。カレンダーを横において、立春からの日数を数えるのは大変でしょうから。なぜ東都歳時記では桜の開花の時期を「月日」で書き表さなかったのかといえば、当時の暦(いわゆる旧暦)では、暦の日付けと季節との関係は、年によって、最大 1ヶ月あまりもずれてしまうため、桜の開花の時期のような、季節の巡りに連動する自然現象を表すには、旧暦の日付けが適していなかったためなのです。度々登場した「立春」はご存じのとおり、二十四節気の一つで、二十四節気は元々、太陰暦の欠点である暦の日付けと季節とのずれが、極端に大きくならないように補正するための仕組みとして旧暦(太陰太陽暦)に取り入れられたものなのですが、その二十四節気を取り入れて補正してもなお、最大では 1ヶ月近く、暦の日付けと季節の間に差が生じてしまうため、日付けに頼らず、直接二十四節気(の一つ、立春)からの日付けで示したというわけです。同じように季節の変化の目安として、立春からの日数で示されたものとしては、八十八夜、二百十日、二百二十日などがよく知られています。今でも、「旧暦は日本の季節によく合う暦だ」とおっしゃる方によく出会いますが、それはどうでしょうか?本当に旧暦の日付が日本の季節によく合うのなら、その暦を使っていた江戸時代の人々が、暦の日付でなくて立春からの日数で桜の開花時期を記録する必要などなかったと思うのですが。新暦でいえば「○月×日頃」と簡単に書けるのに、わざわざ立春からの日数なんて言う面倒な方法で桜の開花のような季節の変化を表す事柄を書き表していたことを見ると、旧暦の日付では季節の変化を適切に表せないことを、実際にその暦(旧暦)を使っていた人たちは知っていたということですね。本日は江戸の花見の時期について見てきましたが、東京やその隣県にお住まいの方、今週末辺りに本日紹介した江戸の桜の名所を古地図片手に散策して桜の名所の変化を楽しんでみるなんていうのも面白いかも。桜の花が散ってしまうまでの短い期間ではありますが、色々と楽しいことが思い浮かびますね。


                          (「2024/03/27 号 (No.6388) 」の抜粋文)
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法隆寺会式(3/22~24) [かわうそ@暦]

□法隆寺会式(3/22~24)
 聖徳太子の命日は、AD 622年(推古天皇30年)の2/22とされています(他にAD 621/02/05との説もあり)。本日3/22は月遅れの聖徳太子の忌日で、明治44年以降はこの月遅れの日付で法要が行われるようになりました。というわけで、本日は3/22ですので、法隆寺会式のお話。

 この法要は、会式(えしき)、あるいは御会式(おえしき)と呼ばれ、3/22~3/24に通常の年は聖霊院において小会式が、10年ごとに大講堂で大会式が行われています。(ちなみに、大会式が行われるのは、西暦の下一桁が「1」の年。直近では2021年が大会式の年で、この年はまた聖徳太子の1400年御遠忌でもありました。御会式の始まりは 748年(天平20年)。行信僧都によって行われたのが最初とされています。法隆寺に納められている聖徳太子の木像の厨子は秘仏とされていますが、この御会式の期間は公開されます。御会式の際の供物は、榧の実、ほし柿、銀杏、寒天・・・等を三宝の上に高く盛ったもので、中世の食生活の模様を表すものだと云われています。一応、奈良の近県に住んでいるかわうそですので、いつか会式に参拝してみたいものだと思っています。今年はこの日程に別の用事が入ってしまっているのでむりですが、来年とか、可能かな??法隆寺会式については法隆寺のサイトがありますので、更に知りたいという方は法隆寺のサイトを御覧ください。

 ※法隆寺「おしらせ」 http://www.horyuji.or.jp/

                          (「2024/03/22 号 (No.6383) 」の抜粋文)
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【彼岸が来れば団子を思う】 [かわうそ@暦]

【彼岸が来れば団子を思う】
 (彼岸がくると、先祖の供養よりも彼岸の団子のことをまず考えるという意から)本来の重要なことを忘れた気楽な生活態度をいう。 《成語林》

 昨日、墓参りに行ってきました。と言っても私自身のご先祖様方の墓は、現在住んでいる場所からはかなり遠方の私の生まれ故郷にありますので、昨日出かけたお墓は家内の父方および母方のご先祖様のお墓です。こちらはそんなに遠くないので半日もあれば両方のお参りが出来ました。お彼岸の頃は気候も穏やか。桜の花もちらりほらりと咲き始め、墓参りと言うより長閑な春の散歩といった感じでした。天気はいいし、桜は咲き始めたし、足下には枯れ草の合間から新しい緑が顔を出している。「ああ、こんな季節には弁当持ってピクニックにでも出かけたい」そんなことを考えました(あいにく昨日は、風が強くてピクニックは無理でしたが)。その想像とお彼岸が結びついて想像の中のお弁当の中身はぼた餅になっていました。想像の中のお弁当のぼた餅を眺めながら(?)、ふと脳裏を過ぎったのがこの言葉。想像の中では彼岸の団子ではなくてぼた餅でしたが、まあそのくらいの違いはこの際許してもらうことにしましょう。何ていったってお彼岸のお墓参りの最中に、ご先祖様の供養をおもうよりぼた餅のことなんかを考える「気楽な生活態度」の私のことですから。まあいいじゃありませんか。あんなに天気のいい一日だったんですから。それに、ぼた餅のことを考えてはいましたがお墓参りもしたんですから。

                          (「2024/03/21 号 (No.6382) 」の抜粋文)
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【二河白道】 (にがびゃくどう) [かわうそ@暦]

【二河白道】 (にがびゃくどう)
 〔仏〕善導が「観経疏散善義」で説いた比喩(ひゆ)。おそろしい火・水の二河に挟まれた細い白道を、西方浄土に到る道にたとえたもの。火の河は衆生の瞋恚(しんい)、水の河は衆生の貪愛(とんあい)、白道は浄土往生を願う清浄の信心を表す。二河。白道。 《広辞苑・第七版》

 日本に浄土思想が拡がるとともに、西の彼方には煩悩に満ちたこの世界とは違った理想の世界、西方浄土があると信じられるようになりました。彼岸の中日(春分・秋分の日)には太陽が真西に沈みます。海辺で沈む太陽を眺めると、真西に沈む太陽が水面に白く光る一筋の道を映し出します。まるで二河白道が具現化されたようなまぶしい道。この道は、西方浄土へ至る道であるとして尊ばれ、この道を照らす春分、秋分の日の夕日を拝する行事が行われたそうです。宗教的な意味合いは判らなくとも、朝日、夕日が海を照らして作るこの白い道にはは、ただ眺めるだけでも何か敬虔な気持ちを呼び起こしてくれる力があるような気がします。この文章を書いているのは春分の日の朝。日暮れには海の上に、きっとこの二河白道を見ることが出来ることでしょう。そしてこんな私にも敬虔な気持ちを呼び起こしてくれることでしょう。そうしてくれるよう、今のうちからお天道様にお祈りすることにします。

                           (「2024/03/20 号 (No.6381)」の抜粋文)
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お彼岸の日付と春分・秋分の日の関係 [かわうそ@暦]

■お彼岸の日付と春分・秋分の日の関係
 明日は春分の日、春の彼岸の中日です。彼岸の時期になると「お彼岸はいつからいつまでですか」という質問をいただくことがあります(そういえば、今年はまだないな)。中には、Web こよみのページの雑節のページ暦の雑節 http://koyomi8.com/zassetsu.phpで解決しましたといううれしいお便りも幾つかあります。嬉しいな。その彼岸の期間ですが現在は、春分の日・秋分の日を中日としてその前後三日、計 7日とされています。今回の彼岸の例で言えば

  入り 3/17
  中日 3/20
  果て 3/23

 の期間となります。

◇彼岸が暦に書かれた理由
 彼岸は仏教行事で暦に記載されるものではありませんでしたが、必要があった(現代フーに言えば「ニーズがあった」)からでしょう、今では雑節の扱いで書き込まれることが普通になっています。彼岸の日付が暦に記載されるようになった理由は「国史大事典」によれば『昔(彼岸会の)談義説法は比叡山の坂本に限って行われていた。都鄙の人々はこの説法を聞きたいがために群れ集うのだが、その年の彼岸の日付がよくわからないので難儀するからと、比叡山からの要請があってこれを暦に載せるようになった。』です。「国史大事典」のこの部分の元は「江戸の歳事風俗史」の記述です。これによると彼岸が暦に記載されるようになった理由はなんと、お坊さんの説法を聞きたいがために群れ集う善男善女への便からだったとか。今のお坊さん方も、善男善女がカレンダーにこの日をマークして、これを楽しみとして人々がお寺に群れ集うような説法をして頂きたいものですね。「カレンダーのマーク」はカレンダー屋さんが既に赤く塗ってくれていますので安心ですけど(「春分の日」という祝日としてね)。

◇お彼岸の日付の変遷
 この彼岸の日付ですが、前段で書いた「善男善女の時代」には春分、秋分の日から数えて三日目が彼岸の入りの日でした。この時代の春分・秋分は恒気法という計算方式で、現在の定気法という方式で計算した春分・秋分と1~3日異なります。たとえば、2024年の春分の日を定気法で計算するとご存じの通り、3/20となります。これを恒気法で計算すると3/22となり、少し遅い日付となります。彼岸が暦に記されるようになった時代の暦は、恒気法で求めた春分・秋分を計算しておりましたので、これを基準にして「春分・秋分の日から数えて三日目が彼岸の入りの日」とすると

  彼岸  3/24~3/30 (中日は 3/27)
  秋彼岸 9/23~9/29 (中日は 9/26)
  ※日付は、現在の暦(いわゆる新暦)によるものです。

 となります。この日付だと彼岸は今よりちょっと後になりますね。これは貞享暦の終わり(1754年)まで使われた彼岸の期間ですのです。次に、江戸時代の中期の暦(宝暦暦・寛政暦 1755~1843年)のお彼岸の期間はというと、
 
  彼岸  3/17~3/23 (中日は 3/20)
  秋彼岸 9/19~9/25 (中日は 9/22)

 となります。この宝暦暦・寛政暦の彼岸の考え方はちょっとイレギュラーなもので、「彼岸の中日は昼夜等分の日」と昔から考えられていたことを暦の上で実現したものです。彼岸の中日が昼の長さと夜の長さが同じになる日と言う観点で決定したのです。彼岸の中日は当時の恒気法によって計算した暦の春分・秋分の日異なります(現在の定気法で計算した春分・秋分の日と一致します)。この宝暦暦・寛政暦の次にやって来るのが日本最後の太陰太陽暦である天保暦です。この天保暦から春分・秋分の日の計算が恒気法から定気法(現在使用する方式)に変わり、彼岸の考え方も現在の私たちが考えるものと同じ、つまり春分・秋分の日を中日としてその前後三日の期間というものになって現代に至っています。いろいろ細かく見ていくと、面倒くさい彼岸の期間と春分・秋分の日の関係ですが「へ~」とは思っても、普通の人は気にしないでしょうね。悩まなかったって暦に書いてあるわけですから。そう考えれば、お坊さんの説法を聴きたくてお寺(高野山)に人々が詰めかけた昔も、現代も同じですね。これが「暦」の効用なのかな?

                          (「2024/03/19 号 (No.6380) 」の抜粋文)
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暖かな春の彼岸の入りの日の雑話 [かわうそ@暦]

■暖かな春の彼岸の入りの日の雑話
 今朝は春の彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる彼岸の始まりの日です。そして今朝はこの諺通りで、春らしい穏やかな朝でございます。人一倍寒がりな私ですので、他人が見たら冬の服装だろうと言われそうな装いではありますが、私にとっては春の装いである姿で、朝の一時を過ごしております。ああ、春、春なんですよ。

  閑話休題

 「暑さ寒さも彼岸まで」は彼岸の頃になれば、春ならば余寒の寒さも薄らぎ春らしくなり、秋ならば残暑もしのぎやすくなる時期であると昔から言い習わされて来た言葉です。彼岸が春と秋にあり、この言葉も春の彼岸、秋の彼岸を同等に扱った言葉のようですが、我々の感じる暑さと寒さには多分に「慣れ」の問題があって、温度計の示す気温とは違っているようです。「暑さ寒さも彼岸まで」といえば、暑い時期も寒い時期も彼岸辺りで終わりとなってあとは快適な気温の過ごしやすい季節となるという意味で使っています。ですが実際の気温の変化を見てみると、春と秋とでは大違い。理科年表のデータから30年分の東京の月平均気温を平均して春の春分と、秋の秋分の気温を比較する、春の彼岸の時期の平均気温は 8℃。対して秋彼岸の平均気温は23℃。その差は15℃ほどもあります。15℃の気温差といえば大変なものですが、寒い冬を越した春分の彼岸と暑い夏の後にやってくる秋彼岸は、人間にとってはどちらも「過ごしやすい」と捉えられようです。人間の慣れってすごいですね。言葉を換えれば、人間て随分アバウトな生き物だともいえますが。アバウトデモ委員です、「過ごしやすい季節」と感じるのなら。本日は「暑さ寒さも彼岸まで」を実感できる彼岸の入りの日です。暦のこぼれ話なのに、彼岸についての話はないのか!と、そんな読者の不満の声もあるかもしれませんが、彼岸の期間は今日から7日間もありますので、また「ぼちぼち」書かせていただきますので、本日はこんな話でお許しください。

                          (「2024/03/17 号 (No.6378) 」の抜粋文)
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【円周率】 [かわうそ@暦]

【円周率】
 円周の長さとその直径との比、または円の面積と半径の平方との比。近似値は3.14159。ギリシャ文字π(パイ)で表す。 《広辞苑・第六班》

 3/14は「数学の日」であるそうです。日付は、円周率の近似値3.14にちなんだものとのこと。円周率は小学校~の算数、あるいは数学でなじみのある数字です。多分、小学校の「算数」に登場する、唯一の無理数でしょう。初めて「円周率」と出会ったのは、

 「公園に直径十メートルの池がありました。その池の周囲に柵を作るために杭を打ち込むことになりました。杭と杭の間隔を1メートル以上あけないようにするためには、杭は最低何本必要でしょうか。」

 なんていう問題だったのでしょう(上記問題は、適当に考えました)。その頃は、よくわからないまま「円周率は 3.14と覚えましょう」といわれて、素直に「3.14」と覚えていました。少し大きくなって、円周率はもっともっと先まで続いていることを知り、多くの人がそうしたように、

  π = 3.141592653589・・・

 と、何桁まで覚えられるかなんてことにチャレンジした記憶があります。当時は30桁くらいは覚えたと思いますが、今思い出そうとしても、上に書いたところまでしか出てきませんでした。まあ、このくらいの桁があれば、ほとんど、実用的な計算には不足はないのですけれど。 またもうちょっと大きくなって、計算機でプログラミングの真似事が出来るようになると、自分で円周率を計算してみようなんて考えて、試したこともありました。そして、これは結構大変で時間がかかることも学び、コンピュータなどない時代に、せっせと円周率を求めた人たちを尊敬しました。現在は、円周率はすでに数十兆桁(もっともっとかな?)まで計算されているそうですが、もちろん限りはありません。円のようにありふれた図形の中に、無限が潜む。よくわからないけれど、なんかすごい・・・そんなことを感じさせてくれる円周率という言葉でした。

                          (「2024/03/14 号 (No.6375) 」の抜粋文)
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雛祭りに菱餅の話 [かわうそ@暦]

■雛祭りに菱餅の話
 本日は 3/3。雛祭り(正式には「上巳の節供」)の日ですので、昨日に引き続きになりますが雛祭り関係の話を採り上げてみます。昨日は雛祭りにつきものの節供植物が元々は桃じゃなくて蘭(藤袴)だったという本流ではない話でした。本日も「引き続き」と言うことで、これまた本流とはいえない雛祭りの話、菱餅の話です。

◇菱餅の色は三色?
 現在、雛祭りにつきものの菱餅といえば、大体三色と相場が決まっているようです。地方によっては、四色とか五色もあるそうですが、ここではよく見かける三色の菱餅から話を進めます。お雛様の飾り付けとして欠かせない存在である三色の菱餅。皆さんもきっと今年も何処かでご覧になっていることでしょう。この三色って何色だったか思い出せますか?

   紅・白・緑

 というのが大体定番の三色。おそらく「紅」は桃の花を、「白」は雪を、「緑」は草を表しているのでしょう。冬が終わって草が育ち、花が咲く季節のお供え物としてはぴったりのように思えます。雛祭りの菱餅は三色が、昔からの伝統かななんて思っていたのですが、調べてみると意外や意外、菱餅が三色になったのは明治に入った頃だとかで、それほど長い歴史があるわけでは無いようです。

◇昔は二色
 では、三色の菱餅になる以前は何色かと調べてみると、これは白と緑の二色だったようです。
 白は普通の白い餅。緑は草餅の色です。この二色の餅を、

   草餅・白い餅・草餅

 と三枚合わせに重ねたものが雛祭りの菱餅でした。草餅は別名よもぎ餅とも呼ばれるように、現在この緑の色を出すものはよもぎです。よもぎは邪を祓う植物とされています(端午の節供などでも登場します)から、よもぎ餅を供えることには邪気を祓うという意味がありそうです。

◇草餅の草は、ハハコグサ
 この邪を祓う植物を入れて草餅を作るということ自体は不思議ではないのですが中に入れる邪を祓う植物は昔から蓬だったわけではありませんでした。当初入れられていた草は母子草(ハハコグサ)であったといわれます。母子草とは春の七草の中にある「御形(ゴギョウ)」のことです。本日の「今日の記念日」の上巳の節供(雛祭りのこと)の解説で、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣があり、これが平安時代に日本に取り入れられた。後に紙で小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し川や海に流して不浄を祓うようになった。とあるように、雛祭りの日には不浄を洗い流すため海や河に出掛けたのですが、そうして出掛けた場所で草餅に使う母子草を摘んで帰ったのでしょう。後世、母子草を入れて撞いた草餅は「母」と「子」を撞くかのようで縁起がよくないと考えられるようになり、何時しか母子草に代わって蓬が草餅の中に入るようになったようです。

◇菱餅の形
 色の話の後は形の話。なぜ雛祭りに備えられる餅が菱形か。丸だってよさそうですが、雛祭りに飾られる餅は「菱餅」です。これにはこれの歴とした理由があります。菱餅の四角い形は、大地をかたどったものなのです。中国古代の伝説では、天は丸く大地は四角いものと考えられていました。そして天は男子の徳、地は女性の徳を持ったもの(天皇陛下の誕生日を天長節、皇后様の誕生日を地久節と呼ぶのもこの考えから)と考えましたので、女児の節供である雛祭りの餅は、女性の徳をもった大地をかたどって菱形に作るのだそうです。ちなみに端午の節供に作る粽は、天をかたどって丸く作る事になります(粽が「丸い」? には少々違和感がありますけど)。

◇大きさ
 菱餅の色や形について書いてきたついでに大きさの話です。今の菱餅は精々普通の食べるお餅くらいのサイズですが、江戸時代後期には長さが一尺(約30cm)もあるものが作られていたとか。女児が生まれると、その年の三月三日の節供には、このサイズの緑・白・緑の三段重ねの菱餅を女児の出産を祝ってくれた親戚や親しい人たちに配ったそうです。この「長さ一尺」が菱餅の一辺の長さなのか、対角線の長さなのかはちょっとわからなかった(わかったら何かの機会にまた書きます)のですが、一辺の長さにせよ対角線の長さにせよ、随分大きなものだったようです。これだけ有れば、食べではありますね・・・。本日は雛祭りと言うことで、そのお供え物の定番である菱餅の話でした。お供えの餅の色や形の一つ一つにも、色んな意味があるものですね。まあ、餅好きの私としては、お下がりの菱餅を食べさせていただければそれで結構なのですけれど。

                          (「2024/03/03 号 (No.6364) 」の抜粋文)
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桃の節供の主役は藤袴(フジバカマ)? [かわうそ@暦]

■桃の節供の主役は藤袴(フジバカマ)?
 明日は 3/3。上巳(じょうし)の節供です。本来は、三月初め(上)の巳の日に祝われたことから上巳の節供と呼ばれ、これが本当の名前なのですが、現在は桃の節供とか雛祭りと呼ばれるのが普通で、上巳の節供と言ってもあまりぴんと来ないかもしれません。今回は、本当の名前よりみんなに認知されているであろう「桃の節供」という呼び名についてのこぼれ話です。上巳の節供と思われる行事については中国の詩経鄭風に既に「三月上巳に蘭を水上に採って不祥を祓除く」と書かれています。詩経の成立は紀元前9~7世紀とされているので、3000年近く昔にはそれらしい行事が行われていたことになります。もちろん日本での行事はこんな昔の話ではなくて、奈良・平安の頃中国のこの行事が伝わってきたものです。ここで問題は詩経の内容、「三月上巳に蘭を水上に採る」です。登場したのは「桃」ではなく「蘭」です。もっともこの蘭は我々の考える蘭ではなくて藤袴(フジバカマ)のことだと考えられています。藤袴と言えば秋の七草の藤袴ですが、藤袴は蘭に似た芳香を放つ植物なので、蘭の仲間と考えられたのかもしれません(花は似てもにつかないものですけれど)。芳香を放つ草は悪いもの、禍々しいものを祓う霊力があると考えられていたことから、これも不祥を祓う行事だったのでしょう。また「水上に採る」とは「水辺で採る」の意味です。水辺というのは水による穢れ祓い(禊ぎ)の際にこうした芳香を放つ草をその近くで調達したと言うことでしょうか。端午の節句と関係の深い菖蒲もまた、芳香を放つ水辺の植物ですが、これも節供が邪を祓う行事であって、その呪術的な道具として芳香を放つ水辺の植物が使われたことを示しています。そして、身に付いた不祥は自分の身代わりの人形(古くは草人形、後には紙や布で作ったもの)に移して河に流していました。各地に残る「流し雛」の行事はこうした古い上巳の節供の姿を残したものです。古い時代の節供には、この「邪を祓う」という行為が主であったので、関係する植物も邪を祓う水辺で調達出来るものが使われたようです。ですから、上巳の節供の始まりの頃まで遡ると今私たちが普通に「桃の節供」と呼ぶような、桃の花との直接の結びつきはなかったようです。桃の花と上巳の節供が結びつくようになったのは何時かということはよく解らないのですが、どうやらこうした「邪を祓う行事」の意味が薄らぎ、お雛様が河に流されるような簡易なものから、家に飾られるような雛人形に変わってから以降と考えられます。だとすると室町時代の終わり頃でしょうか。お雛様を家に飾り、様々な装飾を加える中で、香りによって邪を祓うための呪術的な道具としての「草」から、装飾にも用いられる「花」へと変貌したのでしょうね(芳香を放つという点では通じます)。桃の花自体は、前出の詩経の時代から佳い娘になぞらえられる花で有りましたし、鬼や邪気を祓う霊力のある植物であるとも考えられていたものですから、女児の節供にはぴったりの花として上巳の節供と結びついたのではないでしょうか(鬼退治と言えば桃太郎。これも「桃」による鬼追いの話)。我々にとっては上巳の節供と言えば桃の節供のことですが、最初から桃の節供として生まれたわけではなさそうです。「伝統行事」と一口に言いますが、こうしてよく見てゆくと、始めから今のような姿で生まれたわけではなくて、それぞれの時代時代に様々なことが付け足され、あるいは忘れられながら姿を変えて出来上がって北ものだと言うことがわかります。

                          (「2024/03/02 号 (No.6363) 」の抜粋文)
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