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花祭り(灌仏会)・2024 [かわうそ@暦]

■花祭り(灌仏会)・2024
 明日は四月八日、花祭りの日です。花祭りは、仏教では重要な行事で灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)ともいいます(他にも、降誕会、仏誕会、誕生会、龍華会などの呼び名があります)。呼び名はいろいろですが、要は仏陀となられた釈迦がお生まれになった日を祝う行事です。

◇花祭りの日付
 花祭りの日付は「四月八日」ですが、これを新暦、月遅れ、旧暦と違った暦の日付で祝うため、地域により花祭りの時期が変わります。関東は新暦の 4/8。関西は月遅れの 4/8、つまり 5/8に行うのが現在では一般的なようです。中には「旧暦の日付で行うのが正式」と仰る方もいるのですが 4/8という日にお釈迦様が生まれたという伝説から、この日付を記念日として祝っているので、新暦とか旧暦とかを問題にするのはどうかと思います。お釈迦様が生きた時代(そして入滅した時代)とお釈迦様暮らした国でどんな暦が使われていたかは定かではありませんが、それが新暦(グレゴリウス暦)でないと言うことは当然。そしていわゆる旧暦といわれる暦でなかったことも、まず間違いの無い事実です。「昔の出来事だから、なんでもかんでも旧暦の日付けが正しい」という間違いです。釈迦誕生の伝説から判るのは、何かの暦で表した日付けが「四月八日」であったということだけ。新暦と旧暦の問題にしてしまうのはおかしいのです。

◇花祭り(灌仏会)の始まり
 『四月の八日、七月の十五日に設斎(おがみ)す』という記述が日本書紀、推古天皇十四年(AD 606)の条に書かれているのが日本における灌仏会の最初の記録だそうです。七月十五日というのは盂蘭盆会のことです。灌仏会は中国で生まれた行事だと考えられますが、この記述をみると、盂蘭盆と並んで日本における最古の仏教行事であると云うことが出来そうです。

◇花祭りの行事といわれ
 花祭りの行事といえば、花々で飾られて花御堂(はなみどう)を作り、その中に置かれた灌仏盤(かんぶつばん)または、浴仏盆(よくぶつぼん)と呼ばれるものの中に誕生仏を安置し、参拝者が竹の柄杓でこの誕生仏に甘茶を注ぐ。というようなものです。それぞれのお寺により違いが有るでしょうが、大体はこんなところでしょう。花御堂は釈迦が誕生したルンビニの花園を表しています。また、甘茶を誕生仏にかけるのは、釈迦の誕生を祝って九頭の龍が天から甘露を注いで産湯を使わせたという故事にちなむと言います(経典によっては龍の代わりに梵天や帝釈天だったりします)。つまり甘茶は、龍が注いだ甘露の代わりということです。平安時代は五種類の香料から作られた五色水(ごしきすい)を注いだといいます。五色水が甘茶に代わったのは江戸時代のことといわれます。このように、甘露に見立てた甘茶や五色水を誕生仏に注ぐことから、「灌仏会」と呼ばれます(「灌」は、注ぐの意味)。参拝者は帰りにこの甘茶を水筒(昔は竹筒の水筒)に詰めて帰ります。この甘茶を飲むと厄除けの効果があるとか。甘茶は漢方薬である甘草(かんぞう)で作るそうなので体にもよさそうです。

◇「花祭り」といわれる理由
 花祭りは、花御堂を造って誕生仏を祭ることから付いた名で、聖徳太子の時代からそう呼ばれたと言いますが、一般化したのは大正時代以後だと言われます。切っ掛けになったのは大正 5年から仏教関係者連合が日比谷公園で花祭りを実施し、年中行事としたことによると言われています(それ以前にも仏教青年伝道会等が「花祭り」を実施していた)。仏の誕生を祝う行事であるためか、子供を中心とした行事が多く、その意味で「灌仏会」なんて言ういかめしい名前より「花祭り」という柔らかな名称が好まれたとも考えられます。何はともあれ明日、四月八日はお釈迦様の誕生日。みんなでお祝いしましょうね。

                          (「2024/04/07 号 (No.6399) 」の抜粋文)
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【晩方】(ばんがた) [かわうそ@暦]

【晩方】(ばんがた)
 ゆうがた。くれがた。 《広辞苑・第七版》

 ある噺家さんが枕(落語等の導入部分に入れる前置きのような話)のなかで「晩方」という言葉を使うのを耳にしました。「晩方」とはまた懐かしい言葉だなと感じ、印象に残ったので本日は早々とこの言葉を採り上げることにしました。「晩方」はその昔、親の世代が話す言葉の中に頻繁に現れたので、子供の頃の私にはなじみのある言葉でしたが、今では懐かしいと感じるほど使うことも耳にすることも減った言葉の一つです。自分自身を顧みると、おそらく40年くらいは、この言葉を使ったことがないと思います。広辞苑の語釈に現れる「ゆうがた(夕方)」は今でも頻繁に使います。「くれがた(暮れ方)」もたまに使いますので

  晩方 = 夕方,暮れ方

 であれば、同じ意味の言葉で入れ替えていると言うことも出来るのですが、私の中では晩方と夕方、暮れ方がどうしても同じには思えず、辞書の説明はどうもしっくりきません。座り心地のよくない椅子に座っている感じです。「夕方」は日の光があるか日没後でもその光がわずかに残っている時間帯を指す言葉。「暮れ方」は日没に近い夕方の一部の時間帯で、晩方はそれより遅い時間、夕方と呼ばれる時間帯の最終版の日の光がほぼ消える頃以降の時間帯。ただしあまり遅い時間は含まないので「夜」という言葉とも違う言葉のように私には感じられます。私の語彙の中で「晩方」に近い時間帯を指す言葉を探すと「宵の口」が引っかかるのですが、意味的には近く感じますが、「宵の口」ではなんだか洒落すぎていて、晩方に感じる素朴さのようなものが感じられません。もちろんこれも私の感覚ではですけれど。噺の枕に「晩方」という言葉を枕に使った噺家さんは、お若いですけれど古典落語を得意とする方なので、枕の中でもこうした言葉がすんなりと出てくるのでしょう。おかげで年寄りの久々に懐かしい言葉にふれることが出来ました。「こんな言葉は、無くしたくないな」自分では何十年も使ってこなかったことを棚に上げて、そんなことを考えながら落語を聴いている私でした。「晩方」、皆さんは使っていますか?

                          (「2024/04/06 号 (No.6398) 」の抜粋文)
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【桜色】(さくら いろ) [かわうそ@暦]

【桜色】(さくら いろ)
 桜の花のような色。淡紅色。「ほんのり桜色に上気する」《広辞苑・第六版》

 今は桜と言えば染井吉野の花、桜色も染井吉野の花の色を思い浮かべるようになってしまっていますが、桜色という言葉が生まれた時代の桜は染井吉野ではなくて山桜。山桜は白い花とともに紅色の若葉が現れ、同時に見えることから、まずは平安時代の貴族女性の衣装である十二単の色目の組み合わせとして「桜襲(さくらがさね)」が生まれました。元の花色に近い桜襲は「表白・裏赤花」という組み合わせであったといいます。この配色は、山桜の白い花と、その間から見える紅色の若葉の組み合わせを表したものでしょう。そして、白い花と紅色の若葉に彩られた山桜を遠望すれば、花と葉の色が混じり合って薄い紅色となり、これが桜色と呼ばれるようになったようです。桜色は布地の織色としては、縦糸(経、たて)を紅糸、横糸(緯、ぬき)を白糸で織ったものがもっとも桜色に近いとされます。染め色としての桜色は江戸の中期頃から広く使われるようになり、今に至っています。桜と関係する色名としては英名のチェリー(Cherry)、仏名のスリーズ(Cerise)がありますがどちらも、桜の花色ではなく、実であるサクランボの赤色を表す言葉です。所変われば品変わるといいますが、国が違えば「桜」で想像するものが花と実の違いがあるようです。想像するものが花と実の違いがありますから、桜の色の意味する色も、違ったものになるものなんですね。

                          (「2024/04/05 号 (No.6397) 」の抜粋文)
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エイプリルフール [かわうそ@暦]

□エイプリルフール
 本日は4月1日。 エイプリルフール。または万愚節と呼ばれる日です。「四月馬鹿」という言葉も有りましたが、今も使われるでしょうか?さて、この日は罪のない嘘をついて良い日とされ、欧米では新聞やTVニュースなどまでが手の込んだ嘘(おちの部分で笑えるようにしておかないといけませんが)を掲載・放送するようです。良くできた嘘については、種明かしの後、その「嘘のニュース」が流れたことが、またニュース(こっちは本当の)になるほどです。日本でこれをやったら、さて受け入れられるかどうか。笑って済ませてくれる人ばかりじゃないでしょうね。

◇エイプリルフールの始まり
 エイプリルフールの始まりは、1564年にフランスのシャルル 9世が 1/1を新年とする暦を採用したのがきっかけだといわれます。それまでヨーロッパの多くの国は伝統的に3/25を新年の始まりとしてこれから 1週間新年の馬鹿騒ぎをしたといいます。 4/1はこの馬鹿騒ぎが終った翌日で実質的年初ともいえます。それまで慣れ親しんだ年初の概念を覆すシャルル 9世の突然の年初変更は、民衆の間には強い反発を生み出しました。反発した人々は従来の実質的な年初となる 4/1を「嘘の新年」として馬鹿騒ぎをするようになり、これがエイプリルフールの始まりだといわれます。

◇3/25が年の初めという不思議
 エイプリルフールの始まりを書いたところで、皆さんが疑問に思いそうなことを一つ。それは、それ以前の新年が3/25日に始まるということ。何でこんな時期という気もしますが、これは昔からヨーロッパにおいては一年の始まりは春、春分の日付近に始まるという春分年初の考えがあったからです。この春分年初の考えはおそらく農耕の開始時期と一致して自然に生まれたサイクルだろうと考えています。発生時期は記録が残っていないほど古く、BC45年にユリウス暦が施行時に年初を古くからの3/25から 1/1に移動させたと有ることからも分かります。最低でも2000年以前には既に新年は3/25だと考えられていたようです。そしてこの慣習は古いだけでなく、大変根強いものでした。それはユリウス暦が暦の年初を 1/1と決定後1500年経っても、実生活ではまだ3/25が年初だと考えられていたということで分かります。それにしても25日とは大分半端な日付。これに関しては、おそらく原始的なヨーロッパの暦(ローマの暦)が太陰暦であっただろうということと、ローマでの特殊な日付の数え方とが関係していると考えています。私たちからすれば、おかしな日付での区切りでも、そういうものだと、ずっと使い続けていたら不思議には思わないかもしれません。(人間の大らかさに万歳!?)

◇「四月馬鹿」もう一つの由来説
  4/1が四月馬鹿と呼ばれる原因のもう一つの説はインドから。インドでは悟りの修行は春分の日から3月末まで行われていましたが、すぐに迷いが生じることから、 4/1を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もあります。エイプリルフールの今日、何か「上手い嘘」を考えてみましょうか。ただしくれぐれも、後々問題とならないように、「罪のない嘘」を。

                          (「2024/04/01 号 (No.6393) 」の抜粋文)
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年度のはなし [かわうそ@暦]

□年度のはなし
 今日で三月も終わりです。三月が終われば次は四月、新年度です。そんなわけで本日は、普段から何気なく使うこの「年度」について採り上げてみることにしました。普通「年度」という使い方をする場合は、官公庁や学校などの一年の区切りとして使われる 4月~翌年 3月までのことを指す公的機関の会計年度を指すようです。

◇二つの一年
 私は生まれたときから暦の上の一年と、この会計年度による一年がありましたから、特に疑問を持つこともなくこの「年度」というものを抵抗もなく受け入れてきましたが、よく考えてみるとなんだか不思議ですね。なぜ二つの一年が出来たのでしょうか? ずっと昔からそうだったのでしょうね?「昔からそうだったのか」と書いたところですが、この昔というのがどれくらい昔なのでしょうか? 私が物心ついた頃には既に存在した「年度」ですので、少なくとも半世紀以上は遡る必要があります。半世紀なんてけちなことを言わずに、一気に江戸の時代まで遡って見ると、この二つの一年はありませんでした。江戸時代は暦の一年も会計(?)の一年も一緒でした。江戸の昔に遡れば、年も押し迫った大晦日にその年の払いを払うの払わないので客と商家の手代との駆け引きが繰り返される何ていう光景が当時は普通だったわけです。とすると、大分絞り込まれてきましたね。江戸の昔と私に物心が付いた半世紀程前の間に、日本の年度(会計年度)というものが生まれたようです。

◇会計年度の誕生
 今のように暦年と異なった会計年度が生まれたのは明治に入ってからのことです。現在のように 4月~ 3月という形になったのは明治17年(AD1884)のことでした。ただし、会計年度自体はこの年より少し前から始っており、何度かの変更を加えられて明治17年にほぼ現在のような形に落ち着いたのです。現在のような形に落ち着くまでの会計年度の変遷の様子は以下のとおり。

  適用開始 明治 2年 9月~  期間:10月~翌年 9月
    〃  明治 5年11月~   〃:暦年と同じ
    〃  明治 7年12月~   〃: 7月~翌年 6月
    〃  明治17年10月~   〃: 4月~翌年 3月
    〃  明治22年 4月~   〃: 4月~翌年 3月(市町村)
    〃  明治23年 5月~   〃: 4月~翌年 3月(道府県)

 上記のうち、最初の 4つ(「明治17年10月~」というところまで)は中央政府が会計年度として採用した年と内容を表しています。随分くるくると変わっていますね。

◇会計年度が作られた理由
 暦年と異なる会計年度が作られた理由は次のように説明されています。

 1.主要な税である地租(ちそ)、つまり土地からの農産物の収穫による税の徴収のサイクルに会計
  のサイクルを合わせる。

 2.当時もっとも力のあったイギリスの会計年度(イギリスも 4月~ 3月)にならった。

 3.政府のとある事情

 一応は、1,2 のもっともらしい説明が有るのですが、考えてみると納得のいかない点があります。1.地租の徴収サイクルに合わせたという説明の納得いかない点江戸時代以前だって「地租」が主たる財源だったはずで、明治時代に入ってから大きな変化があった訳ではない。2.イギリスの会計年度に合わせたという説明の納得いかない点当時、世界で一番力のあったイギリスに合わせるというのなら、他の国々だって同様であるはず。でも会計年度はフランスは暦年と一緒だし、アメリカは10月~ 9月でイギリスとは異なります。なぜ日本はイギリスだけ特別扱いしたのかな?それにもし、1,2のようなまともな説明が本当の理由なら、なぜ何回も会計年度を変更しなければならなかったのかがわかりません。しかも明治17年の改正は市町村や道府県と会計年度がずれるというはなはだ不都合な状況を生み出しても断行した(明治17年に政府が 4月からの会計年度に移行した後も市町村等の会計年度はしばらく 7月からのままでした)理由が説明できません。おかしいじゃないか?こう考えてゆくと「3.政府のとある事情」が本当の理由だったのでは?ではその「とある事情」とは??こうした場合に考えられる「とある事情」といえば、思いつくのはお金がないってことでしょうね?お金が無いと支払いが出来ませんから、お金がないときには少しでも支払時期を先延ばししたいもの。お金のない明治政府も「決算時期」を先延ばししたいのですが、正直に「お金がない」というのはなんとも格好がよくない。で、この恥ずかしい理由を隠して最もらしく見せるために考えたのが1と2の理由ではないでしょうか?当時の明治政府は超高給なお雇い外国人を多数雇って、西洋技術を導入し、鹿鳴館を造って他国の外交官を接待して・・・とお金は出る一方で、財政は火の車でしたから「決算を先延ばし」したかったのでしょう。

◇それ以後
 こうして明治17(1884)年に生まれた会計年度は、田中(角栄)内閣時代に一度、「暦年と同じにしよう」という動きがありましたが、大蔵省(当時。現財務省)の強力な反対にあって改変はならず、今もそのままつづいています。まあ少々煩雑ですけどそれが当たり前と慣れてしまった私には、特に変える必要性を感じません。きっと私以外の人も会計年度の区切りの時期を変えることで起こる混乱と、変えたことによって得られるメリット(「合理的に見える」ってことくらいかな?)を天秤にかけて、変えないことにして今に至っているのでしょう。なお、これに関してもっと詳しく知りたい方は、Web こよみのページの暦とと天文の雑学の以下のページをご覧下さい。

  「役所の一年は4月から・・・会計年度のはなし」http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0880.html

                           (「2024/03/31 号 (No.6392)」の抜粋文)
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「シルクロードの日」と楼蘭 [かわうそ@暦]

■「シルクロードの日」と楼蘭
 「今日は何の日」のデータによれば、今日は「シルクロードの日」。これは、かつてシルクロードの要衝にあり、交易で栄えた都市、楼蘭(ろうらん)の廃墟が、中央アジアのタクラマカン砂漠の中に発見されたのを記念した記念日です。楼蘭発見の年は1900年(明治33年)でした。

◇楼蘭(ろうらん)とロプ・ノール湖
 楼蘭の名は中国の有名な史書、史記にも登場する都市で、史記によれば塩水を湛えた大きな湖(ロプ・ノール湖)の湖畔に栄えた城郭都市であったとされていましたが、その大きな塩湖とともに砂漠に姿を消して1900年当時にはどこにあったのかも解らなくなっていた都市でした。楼蘭があったと考えられたタクラマカン砂漠は、年間の降水量がわずか数mmに過ぎないという極度に乾燥した砂漠です。その「タクラマカン」という名前はウイグル語で「死の世界」を意味し、迷い込んだら生きては帰れない砂漠と怖れられた場所だったそうです。19世紀末当時、タクラマカン砂漠周辺は地球上に残された数少ない地理学的な空白地帯で多くの地理学者、探検家を引きつける場所となっていました。その地理学的空白地帯を埋めるべく、幾隊もの調査隊が向かいましたが、かつて「広大な塩湖、ロプ・ノール湖」があったことが、史記を始めとした古い文献には度々記述されているにもかかわらず、どの隊もその塩湖を発見することが出来ませんでした。実は、1876~1877年にこの地域を調査したロシアの調査隊は、タリム河の下流に二つの湖があることを発見し、これがロプ・ノール湖であると考えましたが、この湖は淡水湖であったことと古代中国の地図から推定される場所から、 400kmも離れた場所にあることから、ロプ・ノール湖とは別の湖であると考える者も多く、相変わらず、ロプ・ノール湖とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の存在は謎のままでした。

◇砂漠に消えたロプ・ノール湖とその復活
 ロプ・ノール湖の所在とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の謎は1900年にタクラマカン砂漠地帯を調査していたスウェーデンの地理学者、スヴェン. A.ヘディン(Sven.A.Hedin) が砂漠地帯で干上がった古代の湖の痕跡を発見し、次にその湖の痕跡の周辺から古代都市の遺跡を発見したことで、解かれました。この干上がった湖こそ、史記にその存在が記述されていた塩湖であり、古代都市の遺跡が楼蘭だったのです。ヘディンの発見は単なる偶然によるものではなく、ロプ・ノール湖があったと考えられる場所を縦断し、その高低図(断面図)を作れば、かつて湖であった場所があればその地形的な特徴が解るはずと考えを進め、調査した結果でした。ヘディンの予想は当たり、干上がった湖と思われる地形が見つかりました。そこからは塩の層や貝殻、それに湖畔に生えていたと思われる涸れた木の痕跡が見つかりました。そしていくつかの幸運があって、ロプ・ノール湖の湖畔に栄えたとされる楼蘭の廃墟も同時に発見できたのでした。この発見後も周辺の地形の調査を継続したヘディンは、失われた塩湖、ロプ・ノール湖の跡と、その 400km南にあるロシアの調査隊が発見した淡水湖の関係に気づきました。この地域一帯の標高差はほんのわずかなもので、河が流れれば水が運ぶ堆積物によって河床が高くなり、一方、強い風が吹きつける砂漠地帯は風による土砂の浸食によって低い場所が出来てゆきます。この傾向が長く続くのなら河はやがてその流路を変えるのではないかとヘディンは考えました。こうした河の流路の変化によって、かつてロプ・ノール湖であった湖への河水の流入が途絶え、ロプ・ノール湖は干上がり、新しく河水が行き着いた先に別の湖が出来たのではないか?そして、豊かな水を湛えたロプ・ノール湖が干上がると、水を失った都市、楼蘭も見捨てられ、砂漠に埋もれることになったのではないかと。発見当時は、干上がった状態であった、かつてのロプ・ノール湖でしたが、もしヘディンの考えが正しいのだとすれば、いつかまた河の流路が変わり、再び昔の姿を取り戻すかもしれない。ただ、こうした自然の変化は何百年、何千年どころか、何万年もかかる変化かも知れない。こうした変化を思いついたヘディン自身も、それが本当かどうか、確かめられる日が自分の命の続く間に起こるとは思っていなかったようです。ヘディンの考えはある点では正しく、そしてある点では間違っていました。ヘディンの発見からわずか21年後、砂漠地帯を流れている河が流路を変え始め、砂漠に消えた湖、ロプ・ノール湖が再びその姿を現したのです。これを知ったヘディンは、1934年に再びこの地を訪れ、いつかロプ・ロール湖が復活するだろうという自分の説の正しさと、自分の命の続く間に、それを確かめることは出来ないだろうという予想の誤りを知ることができたのでした。

◇余談
 「シルクロードの日」にかけて、中学生の頃にワクワクしながら読んだ、ヘディンの探検記の話などを思い出しながらこの記事を書きました。あの頃は、私もまだ純真だったななどと思いながら・・・最後に、残念なお知らせ。ロプ・ノール湖は、ヘディンが復活を目にした後、20世紀半ばまではその姿を留めていたそうですが、その後の気候の変化や河にダムが作られたことの影響などから、現在は干上がってしまっており、その湖底の跡に塩の層を残すばかりになってしまっています。
 ウィキペディア(日本語版)https://ja.wikipedia.org/ によれば、1959年には存在が確認されており、完全に干上がったのは1962年と推定されているとのこと。残念です。現在、GoogleEarthでかつてロプノール湖のあったあたりには、湖底痕とおぼしき地形(色かな?)と巨大な肥料プラント(塩田みたいなもの)が写っています。

                          (「2024/03/28 号 (No.6389) 」の抜粋文)
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江戸の桜の咲くころ [かわうそ@暦]

□江戸の桜の咲くころ
 今朝、テレビのお天気コーナーで、東京の靖国神社にあると言う桜の標準木の花(まだ蕾?)の状況を中継していました。枝の先にはほんのわずかですが、咲いていると言っていいのかな・・・という花とも蕾ともつかないものが映っていました。今日明日中には開花宣言となるのかな? といった感じでした。この分で行くと今週末くらいにはちょっと気の早い花見が出来るくらいにはなりそうです。きっと、桜の名所は賑わうことでしょうね(東京在住でもないので、他人事ですが)。東京の花見の話題から、本日は東京が「江戸」と呼ばれていた時代の江戸の花見の時期の話を一つ。

 今も昔も、この時期になると多くの人が楽しみにしているのが花見。斎藤月岑の書いた『東都歳時記』の二月の項には江戸の花見の様子が描かれていますので、本日は東都歳時記にある、桜の見頃の時期を眺めてみることにしましょう。眺めるのが桜そのものではなくて日付けというところが、こよみのページですけどね。なお、本日活躍してくれる東都歳時記は天保九年(AD1838)に刊行された本で、江戸の昔の風俗を知る上で大変重宝な本です。

・彼岸櫻(ひがんざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山 山王、車坂、二ツ堂の前両側、四軒寺入口。寒松院の原犬ざくら
  其他、上野山中は彼岸櫻多し ・・・後略・・・

・枝垂櫻(しだれざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山(坊中に多し) 谷中日暮里 湯島麟祥院 根津権現社 小石川傳通院 
  大塚護持院 広尾光琳寺 ・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十日め頃より (新暦4/4頃)
 
  東叡山 谷中七面宮境内 駒込吉祥寺 小石川白山社地旗櫻 大塚護国寺
  小金井橋の両側 江戸より七里余りなり。・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十五日め頃より (新暦4/9頃)

  東叡山 飛鳥寺 ・・・中略・・・ 豊島足立の野径を見渡し、風景等尋常ならず。
   毎春遊観多し。王子金輪寺の前 ・・・後略・・・

・重弁櫻(八重桜 やえざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 谷中日暮里 諏訪社辺、田園の眺望いとよし。・・・中略・・・
  道灌山の辺雲雀多し。王子権現社辺瀧の川 根津権現社内 谷中天王寺 
  同瑞林寺 品川御殿山 ・・・後略・・・

・遅櫻(おそざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 浅草寺の千本ざくら、深川八幡の園女が歌仙櫻は今少し。
  以上家父縣麻呂が撰置る『花暦』の一枚刷りによりて日並を録す。

  且ここに記せしは、開きそむべき日並なり。真盛を見んとならば、これよりおくれて見るべきなり。櫻に限らず、開花の時候大概定りあれども、年の寒暖によりて、少しの遅速あり。・・・後略・・・

 東京の方ならなじみのある地名が結構あったのではないでしょうか。たびたび登場する「東叡山」は上野寛永寺の山号です。上野は当時から、東都(江戸)第一の桜の名所として有名でした。遅櫻の項の後にこれは開花の時期だと書いてありますから、花見の時期は今よりは多少遅い時期でしょうか。この辺は当時の桜と現在主となっている染井吉野の開花時期の差でしょう。

◇開花の時期は「立春からの日数」
 ごらんになって分かると思うのですが、開花の時期の記述は

  立春より○○日目頃

 と有ります。現在ならこんな回りくどい書き方はせずに、

  ○月×日頃

 と書くはずです。ちなみに前述の説明でも

  立春より○○日目頃 (新暦 M/D 頃)

 と()に日付けを入れたのは私。皆さんがその時期をイメージしやすいように。カレンダーを横において、立春からの日数を数えるのは大変でしょうから。なぜ東都歳時記では桜の開花の時期を「月日」で書き表さなかったのかといえば、当時の暦(いわゆる旧暦)では、暦の日付けと季節との関係は、年によって、最大 1ヶ月あまりもずれてしまうため、桜の開花の時期のような、季節の巡りに連動する自然現象を表すには、旧暦の日付けが適していなかったためなのです。度々登場した「立春」はご存じのとおり、二十四節気の一つで、二十四節気は元々、太陰暦の欠点である暦の日付けと季節とのずれが、極端に大きくならないように補正するための仕組みとして旧暦(太陰太陽暦)に取り入れられたものなのですが、その二十四節気を取り入れて補正してもなお、最大では 1ヶ月近く、暦の日付けと季節の間に差が生じてしまうため、日付けに頼らず、直接二十四節気(の一つ、立春)からの日付けで示したというわけです。同じように季節の変化の目安として、立春からの日数で示されたものとしては、八十八夜、二百十日、二百二十日などがよく知られています。今でも、「旧暦は日本の季節によく合う暦だ」とおっしゃる方によく出会いますが、それはどうでしょうか?本当に旧暦の日付が日本の季節によく合うのなら、その暦を使っていた江戸時代の人々が、暦の日付でなくて立春からの日数で桜の開花時期を記録する必要などなかったと思うのですが。新暦でいえば「○月×日頃」と簡単に書けるのに、わざわざ立春からの日数なんて言う面倒な方法で桜の開花のような季節の変化を表す事柄を書き表していたことを見ると、旧暦の日付では季節の変化を適切に表せないことを、実際にその暦(旧暦)を使っていた人たちは知っていたということですね。本日は江戸の花見の時期について見てきましたが、東京やその隣県にお住まいの方、今週末辺りに本日紹介した江戸の桜の名所を古地図片手に散策して桜の名所の変化を楽しんでみるなんていうのも面白いかも。桜の花が散ってしまうまでの短い期間ではありますが、色々と楽しいことが思い浮かびますね。


                          (「2024/03/27 号 (No.6388) 」の抜粋文)
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法隆寺会式(3/22~24) [かわうそ@暦]

□法隆寺会式(3/22~24)
 聖徳太子の命日は、AD 622年(推古天皇30年)の2/22とされています(他にAD 621/02/05との説もあり)。本日3/22は月遅れの聖徳太子の忌日で、明治44年以降はこの月遅れの日付で法要が行われるようになりました。というわけで、本日は3/22ですので、法隆寺会式のお話。

 この法要は、会式(えしき)、あるいは御会式(おえしき)と呼ばれ、3/22~3/24に通常の年は聖霊院において小会式が、10年ごとに大講堂で大会式が行われています。(ちなみに、大会式が行われるのは、西暦の下一桁が「1」の年。直近では2021年が大会式の年で、この年はまた聖徳太子の1400年御遠忌でもありました。御会式の始まりは 748年(天平20年)。行信僧都によって行われたのが最初とされています。法隆寺に納められている聖徳太子の木像の厨子は秘仏とされていますが、この御会式の期間は公開されます。御会式の際の供物は、榧の実、ほし柿、銀杏、寒天・・・等を三宝の上に高く盛ったもので、中世の食生活の模様を表すものだと云われています。一応、奈良の近県に住んでいるかわうそですので、いつか会式に参拝してみたいものだと思っています。今年はこの日程に別の用事が入ってしまっているのでむりですが、来年とか、可能かな??法隆寺会式については法隆寺のサイトがありますので、更に知りたいという方は法隆寺のサイトを御覧ください。

 ※法隆寺「おしらせ」 http://www.horyuji.or.jp/

                          (「2024/03/22 号 (No.6383) 」の抜粋文)
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【彼岸が来れば団子を思う】 [かわうそ@暦]

【彼岸が来れば団子を思う】
 (彼岸がくると、先祖の供養よりも彼岸の団子のことをまず考えるという意から)本来の重要なことを忘れた気楽な生活態度をいう。 《成語林》

 昨日、墓参りに行ってきました。と言っても私自身のご先祖様方の墓は、現在住んでいる場所からはかなり遠方の私の生まれ故郷にありますので、昨日出かけたお墓は家内の父方および母方のご先祖様のお墓です。こちらはそんなに遠くないので半日もあれば両方のお参りが出来ました。お彼岸の頃は気候も穏やか。桜の花もちらりほらりと咲き始め、墓参りと言うより長閑な春の散歩といった感じでした。天気はいいし、桜は咲き始めたし、足下には枯れ草の合間から新しい緑が顔を出している。「ああ、こんな季節には弁当持ってピクニックにでも出かけたい」そんなことを考えました(あいにく昨日は、風が強くてピクニックは無理でしたが)。その想像とお彼岸が結びついて想像の中のお弁当の中身はぼた餅になっていました。想像の中のお弁当のぼた餅を眺めながら(?)、ふと脳裏を過ぎったのがこの言葉。想像の中では彼岸の団子ではなくてぼた餅でしたが、まあそのくらいの違いはこの際許してもらうことにしましょう。何ていったってお彼岸のお墓参りの最中に、ご先祖様の供養をおもうよりぼた餅のことなんかを考える「気楽な生活態度」の私のことですから。まあいいじゃありませんか。あんなに天気のいい一日だったんですから。それに、ぼた餅のことを考えてはいましたがお墓参りもしたんですから。

                          (「2024/03/21 号 (No.6382) 」の抜粋文)
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【二河白道】 (にがびゃくどう) [かわうそ@暦]

【二河白道】 (にがびゃくどう)
 〔仏〕善導が「観経疏散善義」で説いた比喩(ひゆ)。おそろしい火・水の二河に挟まれた細い白道を、西方浄土に到る道にたとえたもの。火の河は衆生の瞋恚(しんい)、水の河は衆生の貪愛(とんあい)、白道は浄土往生を願う清浄の信心を表す。二河。白道。 《広辞苑・第七版》

 日本に浄土思想が拡がるとともに、西の彼方には煩悩に満ちたこの世界とは違った理想の世界、西方浄土があると信じられるようになりました。彼岸の中日(春分・秋分の日)には太陽が真西に沈みます。海辺で沈む太陽を眺めると、真西に沈む太陽が水面に白く光る一筋の道を映し出します。まるで二河白道が具現化されたようなまぶしい道。この道は、西方浄土へ至る道であるとして尊ばれ、この道を照らす春分、秋分の日の夕日を拝する行事が行われたそうです。宗教的な意味合いは判らなくとも、朝日、夕日が海を照らして作るこの白い道にはは、ただ眺めるだけでも何か敬虔な気持ちを呼び起こしてくれる力があるような気がします。この文章を書いているのは春分の日の朝。日暮れには海の上に、きっとこの二河白道を見ることが出来ることでしょう。そしてこんな私にも敬虔な気持ちを呼び起こしてくれることでしょう。そうしてくれるよう、今のうちからお天道様にお祈りすることにします。

                           (「2024/03/20 号 (No.6381)」の抜粋文)
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