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2022-11-30 [twitter投稿]



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スイセン(水仙)! [ヘッダー画像]

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2022.11.26撮影
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今日(11/30)の夜空に見える月は【上弦の半月】です [かわうそ@暦]

◆今日(11/30)の夜空に見える月は【上弦の半月】。
上弦の月は日が暮れる頃は、真南の空の高いところにあり、日付が切り替わる頃に、西の地平線に沈んでゆきます。旧暦日による呼び名では【七日月】です。

◆お月様の基礎データ
・上弦の半月の瞬間は 11/30 23時37分 (月齢は 6.7)
 ※上弦の半月とは、月と太陽の黄経の角度差が90度となる瞬間です。
・月出:11/30 12時15分 月没:11/30 23時10分 (東京での時刻)
・南中(真南に見える瞬間):11/30 17時38分 (東京での時刻)
・南中時の月と地球の中心距離は 373000 km (平均距離の 0.97倍)。

 月は平均より 12000km近く、見かけの大きさはいつもより少し大きいです。お月様、見えるでしょうか?見えるといいですね。(「お月様のお知らせメール」の抜粋文)
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2022-11-29 [twitter投稿]



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2022-11-28 [twitter投稿]



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キク(菊)! [ヘッダー画像]

221126no58.JPG
2022.11.26撮影
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2022-11-27 [twitter投稿]



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「南部の私大」のこと [かわうそ@暦]

□「南部の私大」のこと
 本日は昔、とある地方で行われていた暦の関係する不思議な慣習の話です。その不思議な慣習というのが「南部の私大」です。「南部の私大」といっても、東北の南部地方にある私立大学を省略した言葉
 では有りません。ここでの私大は、

 × 私大 ・・・ 私立大学。「しだい」
 ○ 私大 ・・・ 旧暦十二月が小の月の場合、これを大の月と見なして元日を
          一日遅らせること。「わたくしだい」

 の後者のことです。南部盛岡藩領内で長く行われていたことから「南部の私大」とも呼ばれますが津軽藩や、津軽海峡を隔てた松前藩などでも実施されたことがある不思議な風習です。

◇私大の仕組み
 私大とはどのような仕組みかというと、旧暦の十二月が小の月の場合、この月を大の月と見なし、大晦日、元日などを1日ずつ遅らせる。ものです。つまり本当の暦では元日にあたる日を大晦日、正月二日にあたる日を元日として祝うというものです。私大を行う場合、藩の日記には

  旧臘雖為小月依御佳例以小為大故以二日為元日
 
 「旧(年)臘(月)、小月なりといえども、御佳例に依り小を以て大と為す故に二日を以てを元日と為す」と読むのでしょう。臘月(ろうげつ)とは十二月の異称ですので、旧年の十二月が小の月であったとしても、目出度い先例によって、これを大の月とする。そのため、正月二日を元日とするという意味です。でもこんな事しちゃうと、暦の日付がずっと1日ずれてしまって日常生活に不都合が生じそうです。その辺はどうなっているのかというと、適当なところで、私大の日付から本来の暦の日付に戻しています。この日付のリセットをかけるタイミングは正月の二十日前後です。どんな風にするのかというと次のような具合です

  (私大の暦) 十八日 → 二十日
  (本来の暦) 十九日 → 二十日

 私大の暦の正月の十九日をとばして、二十日とすることで、これから以降は本来の暦と日付を一致させたようです(盛岡藩の支藩、八戸藩では、二十一日をとばして二十二日としたそうです)。正月二十日というと、二十日正月とか骨正月と呼ばれ、正月行事の納めの日であることを考えると、私大の暦はあくまでも正月行事という特別な行事の期間のみに適用され、日常の生活に戻るときに、本来の暦の日付に戻していたと考えられます。ちなみに、盛岡藩領内であっても、一般庶民はもう少し早く、十五日以前に私大の日付から普通の暦の日付に戻していたとのこと。正月十五日は小正月。古くから小正月は満月(十五夜の月。現在の天文学的な満月の意味ではない)の日と考えられていましたから、この考えを私大より優先して、小正月が十五夜の日となるように、それ以前に暦を戻していたのでしょう。

◇「御佳例」とはなに?
 先に揚げた藩日記にみえる私大を行う切っ掛けとなった「御佳例」とは?伝説には、南部盛岡藩の南部氏の家祖とされる、南部光行(平安時代末~鎌倉時代始めの武将)の城下への入部の日が正月二日(前月十二月は小の月)となったことから、元日を一日遅らせ、入部の日に合わせて新年の祝いを行ったという伝説がありますが、あくまでも伝説の域を出ない話で、本当の御佳例が何であったのかは、はっきりしません。暦の上からは「御佳例」の正体はうかがい知れないので、この辺は郷土史家の方々の研究に期待することにします(←他力本願のかわうそでした)。

◇人間社会の発展と暦
 暦は、月や太陽の位置、季節の動きなどを読み取るために考え出されたもので有る一方で、人間が集団で生活するための時間軸を定めるものでもあります。ですから、人間の集団が比較的小さなうちなら、その集団の中だけで通用するような暦であっても問題ありません。ただ、その集団が他の集団と接触し融合してより大きな集団に発展して行く過程で、暦も共通のものが必要になってゆきます。南部の私大の暦も南部盛岡藩(とその周辺)という、限定された社会でだけ通用する、暦でした。ただ、それも正月二十日前後で本来の日付に戻しています。現在に比べれば、ずっと人の行き来の少なかった時代でも、やはり他の地域と違った暦を使い続けるわけにはいかなかったわけです。「旧暦は日本の風土に適合した暦だから、日本の暦として旧暦を復活させよう」といった話をなさる方がいらっしゃいますが、本当に旧暦が日本の風土に適合した暦であったとしても(←明らかにそうではないと思っている書き方)、今の時代には無理でしょうね。もっとも、自分自身のスケジュール管理といった他人と関係ない私的な暦として活用する分には問題ありません。そう、昔の南部盛岡藩で「私大」を実施していたように狭い範囲でなら。(最後は、「南部の私大」からちょっと離れた話になってしまいましたが、笑ってお許し下さい)

                          (「2022/11/26 号 (No.5901) 」の抜粋文)
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