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2019-09-20 [twitter投稿]



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ハナキリン(花麒麟) ! [ヘッダー画像]

190920no13.JPG
JA直鞍なのはなガーデン
撮影日:2019.09.20
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お彼岸は行楽? [かわうそ@暦]

□お彼岸は行楽?
 今日は彼岸の入りということで、お彼岸にまつわる話です。

◇彼岸と彼岸の中日
 秋分(春分)の日とその前三日、後三日の計七日間を「彼岸(ひがん)」といい、秋分の日はその「彼岸の中日」と呼ばれます。春にも春分の日前後に同じく岸があります。彼岸とは仏教で考えるところの現世(生死の苦しみに迷う世界)と涅槃の世界(悟りを得て常楽の境地に達した世界)をそれぞれ此岸(しがん)と彼岸と、川のこちら側の岸とあちら側の岸と捉えて名付けられた言葉です。彼岸に行われる法要、彼岸会(ひがんえ)のことも彼岸といいます。彼岸の時期(春分、秋分の時期)は、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。涅槃の世界は西の方の「西方浄土」にあると考えられますから、この時期に真西に沈む太陽は、その西方浄土を示す道を示すものと捉えられ、この日に阿弥陀如来の浄土を観想し、欣慕する法要が行われるようになったもののようです。彼岸の世界はまた、亡くなった人々が去っていった世界だとも考えられますから、ここから彼岸には亡き祖先を敬って、墓参りを行うなどの習俗も生まれました。なお、彼岸という行事は日本にはあっても、他の仏教諸国には無い独自のものだということです。なぜ日本だけが? 不思議ですね。

◇彼岸の中日 > 秋分の日
 現在は「彼岸の中日」というより「秋分の日」という方が判りやすいと思いますが、昔の人の感覚では「秋分の日」というのは、二十四ある節気の一つに過ぎず、秋分 八月中とあるだけの影の薄いものだったようです。彼岸に行われる「彼岸会」が日本の歴史に登場するのは大同元年( 806年)が最初だとされます(日本後記)から、彼岸の歴史はかなり古いものだと考えられます。彼岸が暦の中に取り入れられるようになったのは、比叡山の坂本で能弁な僧を選んで彼岸会の説法を行うようになり、これが評判となって人々が集まるようになったのですが、彼岸の時期は当時の太陰太陽暦では毎年日付が移動してしまって不便であるということから、比叡山の要請を受けて近隣の暦家がこれを暦に書き入れたことに始まったと言われます。今の私たちからすれば、僧の説法を楽しみにするというのはなかなか判りにくい話ですが、楽しみの少ない当時としては、立派な娯楽(それも、後ろ指さされることのない)の一つだったのでしょう。また、徒歩以外旅行の手段が無かった当時としては、彼岸会の説法を聞くためという理由での比叡山への旅は、気候の良い春・秋の物見遊山の旅にもなったことでしょう。

◇ちょっと罰当たり?
 さて、古くから彼岸には「彼岸会の説法」を出しとした物見遊山の側面があったようですが、この伝統をひいたのか、江戸時代もまた彼岸はお参りを出しとした行楽行事の一つだったようです。江戸では阿弥陀如来を安置した六つの寺を巡る「六阿弥陀参り」が流行したそうです。この六阿弥陀参りには、これにかこつけて途中にある岡場所や遊郭に遊びに行くという輩も大分混じっていたようで、

   五番目の阿弥陀は二百の中にいる

 なんて川柳も詠まれたとか(五番目の常楽院が特に遊郭に近かった)。もちろん「二百」とは遊郭の女性の数のことなのでしょうね。まあ、六阿弥陀参りが目的か、単なる口実かの違いはあれ、沢山の人たちが巡り歩いたことは確か。徒歩で、かなりの距離を移動するため、効率よく巡るための案内書まで出版されていたそうです。時代は変わりましたが、彼岸は暑くもなく寒くもなく、空は青く、野花は美しい季節。行楽を兼ねて(?)、お彼岸の墓参りはいかがですか?(「2019/09/20 号 (No.4738)」の抜粋文)

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