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【誉れ】(ほまれ) [かわうそ@暦]

【誉れ】(ほまれ)
 ほめられて光栄あること。評判のよいこと。また、そのような行い。名誉。名声。地蔵十輪経元慶点「広く美(うるわ)しき声誉(ホマレ)十方に流れ振(ふる)ふ」。「神童の誉れが高い」「出藍(しゅつらん)の誉れ」 《広辞苑・第六版》

 最近はあまり耳にしなくなった言葉のように感じますが、「ほまれ」という音も耳に心地よく私の好きな言葉です。地方から立派な人物が生まれると「郷土の誉れ」なんて表現もあったのですが、最近はとんと聞かなくなってしまいました。寂しいですね。これは、この言葉が使わなくなったと云うことなのか、この言葉を使うべき人物が生まれなくなったためなのか?さてさて、私の好きな言葉、「誉れ」を使ったちょっと変わった言葉に馬鹿の誉というものがあります。この言葉を口にした人物は、勝海舟。向けられた人は高橋泥舟です。海舟も泥舟もどちらも号で本名ではありませんが、本名よりこの号の方が通りがよいので号で書かせて頂きます。どちらの号にも「舟」があり、両名と関わりの深い人物に山岡鉄舟という、これまた号に「舟」が付く人物がいるので三人をあわせて幕末の三舟などとも呼ばれます。この三舟の中で、海舟と鉄舟は幕末から明治にかけて活躍し、歴史にその足跡を残しましたが、残ったもう一艘の泥舟は何も成さなかったため、その名が知られることの少ない人です。ただ、何も成さないことを決め、それを貫いた泥舟の生き方を尊び、愛した人たちも、僅かながらいたようで、そうした人たちのおかげで、もう一艘の「泥舟」の名前も伝わっています。高橋泥舟は本名、高橋精一郎。旗本、山本家の次男として生まれ、のちに母方の高橋家を継いで、高橋の姓を名乗るようになりました。幼いころから学んだ槍術は神技と称されるほどとなり、「槍をとっては海内無双」といわれた人物です。また能書家としても知られた人物でした。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、帰京した主君、徳川慶喜に恭順を説き、慶喜が江戸を去るにあたっては、これを護衛してともに江戸を去り、以後は官途に就くことなく、明治36年に69歳で亡くなっています。主君に身を引かせた身で世に出ることを潔しとしなかったようです。先にあげた「馬鹿の誉」という言葉は、泥舟に対する勝海舟の人物評に登場します。

『泥舟の人物はドーかと云うのか。あれは大馬鹿だよ。当今の才子では、あんな馬鹿な真似はするものかい。(中略)維新の際、将軍の守護を託したのも、おれは彼の才子でないところを見取って、これならばと思って、あれに託して、幸に無事を得た訳だ。また、彼が旧主(徳川慶喜)と共に、終身世に出でざるの誓いをなして、主人を隠遁せしめ、自らもその誓いを守って、終身馬鹿の誉と赤貧に甘んじて、あんなに豚の真似をして居るのは、とても才子には出来ないよ。実に馬鹿馬鹿しいではないか。だから、おれは彼を馬鹿と云うのだ。』《泥舟遺稿より》

 勝海舟の人物評は辛辣なものが多く、毒舌家とも云える彼ですから、泥舟への人物評にも「大馬鹿」「豚の真似」といった言葉が並びます。しかし、そんな罵詈雑言が並んだ海舟の人物評を読むと、海舟がこの十二歳年下の泥舟とその生き方をどれほど愛し、尊んだかを感じることが出来ます。「馬鹿の誉」、そんな言葉で評される様な人は大勢の人にその名が知られるようなことは希なことでしょう。ですからそんな人が思いつかないからといって、現在はそうした人がいない訳ではないのかも知れません。どこかにそうした人が、今も生きていると信じたいものです。(「2018/06/07 号 (No.4268) 」の抜粋文)
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エゾノハクサンイチゲ (蝦夷白山一華)! [ヘッダー画像]

180530no110.JPG
礼文町桃岩展望台
撮影日:2018.05.30
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