2023-03-28 [twitter投稿]
hippocampus460原種フリージア - 絵画風 https://t.co/V0C3db4RPB @hippocampus460より03/27 17:10 hippocampus460おはようございます!6時半起床、天気 /満ちていく三日月(6時42分、輝面比36.5%)視認できず。今日は上弦の月(弓張月)、月齢6.2。月の入:0時34分、月の出:10時14分です(北九州)/今朝の空は霞んでいるが概ね晴れ。お… https://t.co/45mHMweCY603/28 07:08 hippocampus460『古代都市・楼蘭とさまよえる湖』hippo@home|https://t.co/r3AFl70VCe03/28 14:25 hippocampus460『クサイチゴ(草苺)!』hippo@home|https://t.co/cu4Q35eCCg03/28 16:42 hippocampus460今日は暖かく良い天気に恵まれる。PM2.5のレベルは14(19→14)、AQI:良い /午前中、花公園に出かける。常連さんも来ていました(*^_^*) 入園者も多かった!園内を一周するが収穫なし(´・ω・`) 茶店で常連さんとしば… https://t.co/vgM8DVyuTU03/28 16:55
古代都市・楼蘭とさまよえる湖 [かわうそ@暦]
■古代都市・楼蘭とさまよえる湖
「今日は何の日」のデータによれば、今日は「シルクロードの日」。これは、かつてシルクロードの要衝にあり、交易で栄えた都市、楼蘭(ろうらん)の廃墟が、中央アジアのタクラマカン砂漠の中に発見されたのを記念した記念日です。楼蘭発見の年は1900年(明治33年)でした。
◇楼蘭(ろうらん)とロプ・ノール湖
楼蘭の名は中国の有名な史書、史記にも登場する都市で、史記によれば塩水を湛えた大きな湖(ロプ・ノール湖)の湖畔に栄えた城郭都市であったとされていましたが、その大きな塩湖とともに砂漠に姿を消して1900年当時にはどこにあったのかも解らなくなっていた都市でした。楼蘭があったと考えられたタクラマカン砂漠は、年間の降水量がわずか数mmに過ぎないという極度に乾燥した砂漠です。その「タクラマカン」という名前はウイグル語で「死の世界」を意味し、迷い込んだら生きては帰れない砂漠と怖れられた場所だったそうです。19世紀末当時、タクラマカン砂漠周辺は地球上に残された数少ない地理学的な空白地帯で多くの地理学者、探検家を引きつける場所となっていました。その地理学的空白地帯を埋めるべく、幾隊もの調査隊が向かいましたが、かつて「広大な塩湖、ロプ・ノール湖」があったことが、史記を始めとした古い文献には度々記述されているにもかかわらず、どの隊もその塩湖を発見することが出来ませんでした。実は、1876~1877年にこの地域を調査したロシアの調査隊は、タリム河の下流に二つの湖があることを発見し、これがロプ・ノール湖であると考えましたが、この湖は淡水湖であったことと古代中国の地図から推定される場所から、 400kmも離れた場所にあることから、ロプ・ノール湖とは別の湖であると考える者も多く、相変わらず、ロプ・ノール湖とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の存在は謎のままでした。
◇砂漠に消えたロプ・ノール湖とその復活
ロプ・ノール湖の所在とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の謎は1900年にタクラマカン砂漠地帯を調査していたスウェーデンの地理学者、スヴェン. A.ヘディン(Sven.A.Hedin) が砂漠地帯で干上がった古代の湖の痕跡を発見し、次にその湖の痕跡の周辺から古代都市の遺跡を発見したことで、解かれました。この干上がった湖こそ、史記にその存在が記述されていた塩湖であり、古代都市の遺跡が楼蘭だったのです。ヘディンの発見は単なる偶然によるものではなく、ロプ・ノール湖があったと考えられる場所を縦断し、その高低図(断面図)を作れば、かつて湖であった場所があればその地形的な特徴が解るはずと考えを進め、調査した結果でした。ヘディンの予想は当たり、干上がった湖と思われる地形が見つかりました。そこからは塩の層や貝殻、それに湖畔に生えていたと思われる涸れた木の痕跡が見つかりました。そしていくつかの幸運があって、ロプ・ノール湖の湖畔に栄えたとされる楼蘭の廃墟も同時に発見できたのでした。この発見後も周辺の地形の調査を継続したヘディンは、失われた塩湖、ロプ・ノール湖の跡と、その 400km南にあるロシアの調査隊が発見した淡水湖の関係に気づきました。この地域一帯の標高差はほんのわずかなもので、河が流れれば水が運ぶ堆積物によって河床が高くなり、一方、強い風が吹きつける砂漠地帯は風による土砂の浸食によって低い場所が出来てゆきます。この傾向が長く続くのなら河はやがてその流路を変えるのではないかとヘディンは考えました。こうした河の流路の変化によって、かつてロプ・ノール湖であった湖への河水の流入が途絶え、ロプ・ノール湖は干上がり、新しく河水が行き着いた先に別の湖が出来たのではないか?そして、豊かな水を湛えたロプ・ール湖が干上がると、水を失った都市、楼蘭も見捨てられ、砂漠に埋もれることになったのではないかと。発見当時は、干上がった状態であった、かつてのロプ・ノール湖でしたが、もしヘディンの考えが正しいのだとすれば、いつかまた河の流路が変わり、再び昔の姿を取り戻すかもしれない。ただ、こうした自然の変化は何百年、何千年どころか、何万年もかかる変化かも知れない。こうした変化を思いついたヘディン自身も、それが本当かどうか、確かめられる日が自分の命の続く間に起こるとは思っていなかったようです。ヘディンの考えはある点では正しく、そしてある点では間違っていました。ヘディンの発見からわずか21年後、砂漠地帯を流れている河が流路を変え始め、砂漠に消えた湖、ロプ・ール湖が再びその姿を現したのです。これを知ったヘディンは、1934年に再びこの地を訪れ、いつかロプ・ロール湖が復活するだろうという自分の説の正しさと、自分の命の続く間に、それを確かめることは出来ないだろうという予想の誤りを知ることができたのでした。
◇余談
「シルクロードの日」にかけて、中学生の頃にワクワクしながら読んだ、ヘディンの探検記の話などを思い出しながらこの記事を書きました。あの頃は、私もまだ純真だったななどと思いながら・・・最後に、残念なお知らせ。ロプ・ノール湖は、ヘディンが復活を目にした後、20世紀半ばまではその姿を留めていたそうですが、その後の気候の変化や河にダムが作られたことの影響などから、現在は干上がってしまっており、その湖底の跡に塩の層を残すばかりになってしまっています。
ウィキペディア(日本語版)https://ja.wikipedia.org/ によれば、1959年には存在が確認されており、完全に干上がったのは1962年と推定されているとのこと。残念です。現在、GoogleEarthでかつてロプノール湖のあったあたりには、湖底痕とおぼしき地形(色かな?)と巨大な肥料プラント(塩田みたいなもの)が写っています。
「今日は何の日」のデータによれば、今日は「シルクロードの日」。これは、かつてシルクロードの要衝にあり、交易で栄えた都市、楼蘭(ろうらん)の廃墟が、中央アジアのタクラマカン砂漠の中に発見されたのを記念した記念日です。楼蘭発見の年は1900年(明治33年)でした。
◇楼蘭(ろうらん)とロプ・ノール湖
楼蘭の名は中国の有名な史書、史記にも登場する都市で、史記によれば塩水を湛えた大きな湖(ロプ・ノール湖)の湖畔に栄えた城郭都市であったとされていましたが、その大きな塩湖とともに砂漠に姿を消して1900年当時にはどこにあったのかも解らなくなっていた都市でした。楼蘭があったと考えられたタクラマカン砂漠は、年間の降水量がわずか数mmに過ぎないという極度に乾燥した砂漠です。その「タクラマカン」という名前はウイグル語で「死の世界」を意味し、迷い込んだら生きては帰れない砂漠と怖れられた場所だったそうです。19世紀末当時、タクラマカン砂漠周辺は地球上に残された数少ない地理学的な空白地帯で多くの地理学者、探検家を引きつける場所となっていました。その地理学的空白地帯を埋めるべく、幾隊もの調査隊が向かいましたが、かつて「広大な塩湖、ロプ・ノール湖」があったことが、史記を始めとした古い文献には度々記述されているにもかかわらず、どの隊もその塩湖を発見することが出来ませんでした。実は、1876~1877年にこの地域を調査したロシアの調査隊は、タリム河の下流に二つの湖があることを発見し、これがロプ・ノール湖であると考えましたが、この湖は淡水湖であったことと古代中国の地図から推定される場所から、 400kmも離れた場所にあることから、ロプ・ノール湖とは別の湖であると考える者も多く、相変わらず、ロプ・ノール湖とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の存在は謎のままでした。
◇砂漠に消えたロプ・ノール湖とその復活
ロプ・ノール湖の所在とその湖畔に栄えたとされる楼蘭の謎は1900年にタクラマカン砂漠地帯を調査していたスウェーデンの地理学者、スヴェン. A.ヘディン(Sven.A.Hedin) が砂漠地帯で干上がった古代の湖の痕跡を発見し、次にその湖の痕跡の周辺から古代都市の遺跡を発見したことで、解かれました。この干上がった湖こそ、史記にその存在が記述されていた塩湖であり、古代都市の遺跡が楼蘭だったのです。ヘディンの発見は単なる偶然によるものではなく、ロプ・ノール湖があったと考えられる場所を縦断し、その高低図(断面図)を作れば、かつて湖であった場所があればその地形的な特徴が解るはずと考えを進め、調査した結果でした。ヘディンの予想は当たり、干上がった湖と思われる地形が見つかりました。そこからは塩の層や貝殻、それに湖畔に生えていたと思われる涸れた木の痕跡が見つかりました。そしていくつかの幸運があって、ロプ・ノール湖の湖畔に栄えたとされる楼蘭の廃墟も同時に発見できたのでした。この発見後も周辺の地形の調査を継続したヘディンは、失われた塩湖、ロプ・ノール湖の跡と、その 400km南にあるロシアの調査隊が発見した淡水湖の関係に気づきました。この地域一帯の標高差はほんのわずかなもので、河が流れれば水が運ぶ堆積物によって河床が高くなり、一方、強い風が吹きつける砂漠地帯は風による土砂の浸食によって低い場所が出来てゆきます。この傾向が長く続くのなら河はやがてその流路を変えるのではないかとヘディンは考えました。こうした河の流路の変化によって、かつてロプ・ノール湖であった湖への河水の流入が途絶え、ロプ・ノール湖は干上がり、新しく河水が行き着いた先に別の湖が出来たのではないか?そして、豊かな水を湛えたロプ・ール湖が干上がると、水を失った都市、楼蘭も見捨てられ、砂漠に埋もれることになったのではないかと。発見当時は、干上がった状態であった、かつてのロプ・ノール湖でしたが、もしヘディンの考えが正しいのだとすれば、いつかまた河の流路が変わり、再び昔の姿を取り戻すかもしれない。ただ、こうした自然の変化は何百年、何千年どころか、何万年もかかる変化かも知れない。こうした変化を思いついたヘディン自身も、それが本当かどうか、確かめられる日が自分の命の続く間に起こるとは思っていなかったようです。ヘディンの考えはある点では正しく、そしてある点では間違っていました。ヘディンの発見からわずか21年後、砂漠地帯を流れている河が流路を変え始め、砂漠に消えた湖、ロプ・ール湖が再びその姿を現したのです。これを知ったヘディンは、1934年に再びこの地を訪れ、いつかロプ・ロール湖が復活するだろうという自分の説の正しさと、自分の命の続く間に、それを確かめることは出来ないだろうという予想の誤りを知ることができたのでした。
◇余談
「シルクロードの日」にかけて、中学生の頃にワクワクしながら読んだ、ヘディンの探検記の話などを思い出しながらこの記事を書きました。あの頃は、私もまだ純真だったななどと思いながら・・・最後に、残念なお知らせ。ロプ・ノール湖は、ヘディンが復活を目にした後、20世紀半ばまではその姿を留めていたそうですが、その後の気候の変化や河にダムが作られたことの影響などから、現在は干上がってしまっており、その湖底の跡に塩の層を残すばかりになってしまっています。
ウィキペディア(日本語版)https://ja.wikipedia.org/ によれば、1959年には存在が確認されており、完全に干上がったのは1962年と推定されているとのこと。残念です。現在、GoogleEarthでかつてロプノール湖のあったあたりには、湖底痕とおぼしき地形(色かな?)と巨大な肥料プラント(塩田みたいなもの)が写っています。
(「2023/03/28 号 (No.6023)」の抜粋文)
2023-03-27 [twitter投稿]
hippocampus460ハナズオウ - 絵画風 https://t.co/SeU4XVdMbe @hippocampus460より03/26 17:43 hippocampus460『KAGAYA (@KAGAYA_11949)』hippo@home|https://t.co/4hkgR4Yxxx03/27 06:52 hippocampus460おはようございます!6時起床、天気 /満ちていく三日月(6時31分、輝面比27.2%)視認できず。今日は夕月、月齢5.2。月の出:9時29分、月の入: 無し です(北九州) /今朝の空は霞んでいるが概ね晴れ。福智山はうっすら視… https://t.co/dWKdlUkVoa03/27 06:58 hippocampus460『原種フリージア (ライヒトリニー)!』hippo@home|https://t.co/mFn6X61Xvj03/27 16:41 hippocampus460今日は晴れ一時曇り。PM2.5のレベルは23(19→23)、AQI:平常 /午前中、草刈り作業。雨が降り暖かくなったので菜園の雑草が目立つようになった。畝・畝間を刈る。その後、タマネギ2畝の除草。腰掛け車に座っての作業だが腰が痛くなる(>_<。)03/27 17:05
KAGAYA (@KAGAYA_11949) [twitter投稿]
夜光虫の帯がほのかに青く光る海。
— KAGAYA (@KAGAYA_11949) March 26, 2023
桜島の火映の向こうにオリオンの三つ星。
(先日、鹿児島県にて撮影)
今日もお疲れさまでした。 pic.twitter.com/ddSzoW0sh0
2023-03-26 [twitter投稿]
hippocampus460カリンの花 - 絵画風 https://t.co/JX4hcefEGc @hippocampus460より03/25 17:15 hippocampus460『3/25は新年の始まり?』hippo@home|https://t.co/1k2WyjSNWD03/25 17:40 hippocampus460おはようございます!6時起床、天気 ☂ /満ちていく三日月(6時21分、輝面比18.5%)視認できず。今日は夕月、月齢4.2。月の出:8時49分、月の入:23時32分です(北九州) /今朝は雨が降っています。空はグレー一色です。福… https://t.co/uBE5qxsIUb03/26 08:17 hippocampus460『ハナズオウ(花蘇芳)!』hippo@home|https://t.co/LNKrTr7S0603/26 17:25 hippocampus460今日は曇り時々小雨。PM2.5のレベルは23(19→23)、AQI:平常 /今日は外仕事が出来ないので部屋で録り貯めたビデオを観て少しPC作業。昼食後は昼寝です(*^_^*)03/26 17:38
3/25は新年の始まり? [かわうそ@暦]
□3/25は新年の始まり?
「新年の始まりの日付はいつですか?」と尋ねたら、十中八九
1/1 です
という答えが返ってくるでしょうね。十中八九じゃなくて、十中十かな?回答以前に、こんな当たり前の質問をした私の頭の具合を心配されそうですけれど。しかし、中には違った回答をして下さる方もいらっしゃるかも(十中八九の残り一二?)。例えば、
「立春」とか「旧正月」
といった具合です。もしかしたら、
「4/1」
という方もいるかも知れません。「年度」という単位で考えると、日本では案外こうした回答もあるかもしれません。一年という長さは季節が一巡りする長さという人間の生活に無くてはならない周期によって決まりますから、地球の上で暮らす人間の社会では、その長さはほぼ普遍的です。しかし、その一年の始まりはいつかという話になると、これでなくてはならないという決定的なものがありません。そのため古い時代の暦はその生まれた場所(というか文化圏?)によって年の初めの時期は結構まちまちです。
◇ヨーロッパの伝統的年初の日付は3/25
中国や日本の伝統的な暦年(現在のいわゆる旧暦の一年)の始まりは立春の時期とされていました。これに対してヨーロッパでは伝統的にもう少し暖かくなった頃、春分の頃を年の始めとする考え方がありました。ヨーロッパではグレゴリオ暦、あるいはその前身となったユリウス暦が広く使われており、この暦での年の始まりはユリウス暦がローマ帝国で採用され始めた紀元前 1世紀の時代から 1/1とされてきました。しかしこの年初の日付は、もっぱら為政者側の都合が反映されたもので秋の収穫が終わり、それに基づいた税の徴収も一段落していて、さらに次の年の作業もまだ始まらない時期(暇な時期?)なので区切りやすいといった理由がありそうです。もちろん目印となる「冬至」の時期に近いということもあるでしょうけれど。ユリウス暦が一般化する以前のヨーロッパでは、多くの地域で春分の頃を年初と考えていました。厳しい冬が去り、草木や作物が成長を始める春の初めを一年の初めと考えていたのでしょう。御上(おかみ)の都合で勝手に年初の位置を変えられても昔から慣れ親しんだ慣習はそうそう簡単には無くなりません。なかなか無くならないどころか、ユリウス暦が採用されてから千年以上経っても春分の時期を年の始まりと考える国がありました。そうした国の一つがイギリスで、なんと18世紀まで年の始まりの日は春分の頃である3/25とされていたのです。イギリスはユリウス暦の改良版であるグレゴリオ暦への改暦が遅かった国の一つでもあり、グレゴリオ暦への改暦は1752年。そしてこのグレゴリオ暦への改暦に合わせてそれまでの、3/25の年初を 1/1に変更したのです。3/25なんていう半端な日付(?)を年初と考えるなんてなんだか不合理だという気もするのですが、慣れてしまえばどうってことは無いのかも。暦にまつわる話の中には時々こんな、不合理と思えるものが混じっているのです。こうした不合理さは暦の不合理というより、暦を使う人間の不合理さを示すものなのでしょうね。
(「2023/03/25 号 (No.6020)」の抜粋文)
「新年の始まりの日付はいつですか?」と尋ねたら、十中八九
1/1 です
という答えが返ってくるでしょうね。十中八九じゃなくて、十中十かな?回答以前に、こんな当たり前の質問をした私の頭の具合を心配されそうですけれど。しかし、中には違った回答をして下さる方もいらっしゃるかも(十中八九の残り一二?)。例えば、
「立春」とか「旧正月」
といった具合です。もしかしたら、
「4/1」
という方もいるかも知れません。「年度」という単位で考えると、日本では案外こうした回答もあるかもしれません。一年という長さは季節が一巡りする長さという人間の生活に無くてはならない周期によって決まりますから、地球の上で暮らす人間の社会では、その長さはほぼ普遍的です。しかし、その一年の始まりはいつかという話になると、これでなくてはならないという決定的なものがありません。そのため古い時代の暦はその生まれた場所(というか文化圏?)によって年の初めの時期は結構まちまちです。
◇ヨーロッパの伝統的年初の日付は3/25
中国や日本の伝統的な暦年(現在のいわゆる旧暦の一年)の始まりは立春の時期とされていました。これに対してヨーロッパでは伝統的にもう少し暖かくなった頃、春分の頃を年の始めとする考え方がありました。ヨーロッパではグレゴリオ暦、あるいはその前身となったユリウス暦が広く使われており、この暦での年の始まりはユリウス暦がローマ帝国で採用され始めた紀元前 1世紀の時代から 1/1とされてきました。しかしこの年初の日付は、もっぱら為政者側の都合が反映されたもので秋の収穫が終わり、それに基づいた税の徴収も一段落していて、さらに次の年の作業もまだ始まらない時期(暇な時期?)なので区切りやすいといった理由がありそうです。もちろん目印となる「冬至」の時期に近いということもあるでしょうけれど。ユリウス暦が一般化する以前のヨーロッパでは、多くの地域で春分の頃を年初と考えていました。厳しい冬が去り、草木や作物が成長を始める春の初めを一年の初めと考えていたのでしょう。御上(おかみ)の都合で勝手に年初の位置を変えられても昔から慣れ親しんだ慣習はそうそう簡単には無くなりません。なかなか無くならないどころか、ユリウス暦が採用されてから千年以上経っても春分の時期を年の始まりと考える国がありました。そうした国の一つがイギリスで、なんと18世紀まで年の始まりの日は春分の頃である3/25とされていたのです。イギリスはユリウス暦の改良版であるグレゴリオ暦への改暦が遅かった国の一つでもあり、グレゴリオ暦への改暦は1752年。そしてこのグレゴリオ暦への改暦に合わせてそれまでの、3/25の年初を 1/1に変更したのです。3/25なんていう半端な日付(?)を年初と考えるなんてなんだか不合理だという気もするのですが、慣れてしまえばどうってことは無いのかも。暦にまつわる話の中には時々こんな、不合理と思えるものが混じっているのです。こうした不合理さは暦の不合理というより、暦を使う人間の不合理さを示すものなのでしょうね。
(「2023/03/25 号 (No.6020)」の抜粋文)
2023-03-25 [twitter投稿]
hippocampus460ヒメオドリコソウ - 絵画風 https://t.co/lhNG3M5iTZ @hippocampus460より03/24 18:15 hippocampus460『KAGAYA (@KAGAYA_11949)』hippo@home|https://t.co/TBGtUTf7kk03/25 07:06 hippocampus460おはようございます!6時半起床、天気 /満ちていく三日月(6時43分、輝面比11.1%)視認できず。今日は夕月、月齢3.2。月の出:8時13分、月の入:22時28分です(北九州) /今朝の空はグレー一色です。福智山は雲の中!P… https://t.co/LKaGxpjf4K03/25 07:14 hippocampus460『カリン(花梨)の花!』hippo@home|https://t.co/gNwuqiTAki03/25 16:48 hippocampus460『KAGAYA (@KAGAYA_11949)』hippo@home|https://t.co/ZfqAh6SERN03/25 17:02 hippocampus460今日は暖かく良い天気に恵まれる。PM2.5のレベルは22(28→22)、AQI:平常 /午前中、月一度の散髪に行く。WBCで話弾む。帰り、お気に入りの魚屋さんで安くて美味しい寿司を、お茶屋さんで煎茶とコーヒー豆を購入。帰宅後、昼食… https://t.co/TegUt0DsIA03/25 17:07