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重陽の節供 (ちょうようのせっく) [かわうそ@暦]

□重陽の節供 (ちょうようのせっく)
 本日は九月九日。九が重なる日なので「重九(ちょうく)」とも呼ばれる日です。この重九の日は重陽の節供と呼ばれます。重陽の節供の「重陽」とは、陽数が重なった日と言う意味です。節供という行事が生まれた中国においては、古代には物事を全て陰陽の性質でその関係を説明しようとする陰陽説という考えが広く普及していました。この陰陽説では数字は、陽の数である奇数と陰の数である偶数とに分かれると考えられており、「九」は一桁の数字としては陽数である奇数の最大の数と言うことで、陽数の極み、陽数の代表と考えられ、その陽数の代表数が重なる日なので「重陽」と呼ばれるのです。

◇五節供
 昔から、日常の日々の生活の間に、特別な日を設けてこれを祭り、一年の巡りにメリハリを付けていました。そうした特別な日の一種として節供があります。節は区切りであり、一年を区切る「季節」の節でもあります。そうした区切りの日に、供物を供えて天地や先祖を祭るというのが本来の「節供」の意味です。この節供は、年に 5回あり、総称して五節供と言います。五節供には、

   人日(じんじつ)
   上巳(じょうし)
   端午(たんご)
   七夕(しちせき)
   重陽(ちょうよう)

 の 5つがあります。重陽の節供はこの五節供の最後と言うことになります。

◇刈りあげの節供
 重陽の節供の時期は、新暦では少々早まってしまいましたが、本来であれば主要な農産物、米の収穫が済んだ後の節供として、一種の収穫祭の様相を示してきました。このため別名「刈りあげの節供」とも呼ばれます。稲刈りが済んだことを祝う節供という意味合いでしょうか。こうした収穫物を祝う行事は古くからあったものと思われますが、そこに平安時代に大陸からもたらされた五節供の一つとが結びついて刈りあげの節供となったのでしょう。かつては経済生活の基盤が「米」でしたから、この収穫を祝う重陽の節供は、節供の中でも特に重視された行事でした。江戸時代は、節供毎に諸大名が江戸城に登城して節供の祝いをするのが習わしでしたが、重陽の節供はその中でももっとも重視された節供であったと言われています。

◇菊の節供
 節供には、それぞれその節供の行われる時期に目立つ吉祥の植物の名を冠した別名があります。例えば三月の上巳の節供は桃の節供という具合です。重陽の節供もまたこうした別名を持っており、その別名となった植物は菊。重陽の節供は別名、菊の節供とも呼ばれています。この別名となる植物と節供行事とは結びつきがあって、節供行事にはこの節供植物が何らかの形で顔を出すことが多いのです。重陽の節供と菊もまたその例外ではありません。重陽の節供には、菊の花を愛で長寿や家族の繁栄を願う観菊の宴や、菊の花を浸した菊酒での祝いなどが行われていました。やがてこれが、「菊合わせ」という菊の花コンクールへと発展し広がりました。現在の菊の品評会や、各地の菊人形などの行事も、元をただすと重陽の節供にたどり着く行事なのです。

◇「くんち」として残った重陽の節供
 重陽の節供は、五節供の中では一番廃れた節供と言えるかもしれません。いつも節供の時期には、「本日は○○の節供・・・」とニュース番組の冒頭で一度は取り上げられるものですが、この重陽の節供に限って言うと、まずそうした場面に登場することがありません。では完全に消えてしまったかというとこれが意外なところで残っています。それが、九州などで祭りを意味する「くんち」。有名なところでは「長崎くんち」とか「唐津くんち」などがそれ。この「くんち」は「九日」から来ているもので、本来は重陽の日に行われたのでした。既に説明したように、重陽の節供は農産物の収穫祭としての刈りあげの節供の性質があります。この収穫祭としての性格が秋祭りとして定着し「くんち」として現在に残ったものです。

◇重陽の日には高い場所へ
 古代中国では重陽の節供には近隣の山や丘などの高台に家族で登り、長寿と家族の繁栄を祈ったと言われます。今日は重陽の日。どこか高台に登って夕日を見ながら、長寿と繁栄を祈ってみては如何でしょうか?

                           (「2023/09/09 号 (No.6188)」の抜粋文)
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2023.09.08撮影
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