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【獺祭】(だっさい) [かわうそ@暦]

【獺祭】(だっさい)
 1.カワウソが多く捕獲した魚を食べる前に並べておくのを、俗に魚を祭るの
  にたとえていう語。獺祭魚。
 2.転じて、詩文を作るときに、多くの参考書をひろげちらかすこと。
 《広辞苑・第七版》

 記念日データによれば、本日(9/19)は正岡子規の忌日で、糸瓜忌あるいは獺祭忌であるとのこと。その獺祭忌にちなんで本日のコトノハは、「獺祭」を採り上げてみました。カワウソが獲物を食べる前に並べておく姿が、あたかも人間が物を供えて祭っているようだと云うことで、「獺が祭る」と云う言葉になったものです。ついでに魚まで付けて「獺祭魚(だっさいぎょ)」と書いても意味は同じ。暦の世界には、この「獺祭魚」と言う言葉が登場します。それは七十二候の一つ、

  獺祭魚(たつうおをまつる) ・・・ 雨水の初候。新暦2/19頃

 です。現在よく使われる日本風の、本朝七十二候には入っておりませんが、暦が中国から輸入された時代から、中世の宣明暦(せんみょうれき)あたりまで、この言葉が使われていました。冬が終わり、川の氷が融けてようやく思うさま河で漁が出来るようになり、喜々として魚を捕らえた獺が、獲物を恭しく並べる姿を目にする頃という意味で、七十二候に採り上げられたものと思われます。カワウソが、一心に獲物の魚を並べる姿を想像したら、こちらまでなんだか嬉しくなってしまいますね。一心に調べものをして、気が付けば周囲は開いたままの参考書で足の踏み場もないと云った人の様子もまたこれに似ています。正岡子規はその居を獺祭書屋と号していますから、きっとこんな足の踏み場も無いような有様だったのでしょうね。実際のカワウソの獺祭と人間の獺祭との違いは、それを眺めるものの感じ方でしょうか。喜々として獲物の魚を並べるカワウソのかわいらしさと、本を読み散らかし片付けもしない人間では、周囲の見る目は違っていることでしょう。

                          (「2023/09/19 号 (No.6198) 」の抜粋文)
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