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日本最低気温の日と八甲田山の遭難 [かわうそ@暦]

■日本最低気温の日と八甲田山の遭難
 昨日、気象衛星で撮影された日本列島周辺の画像を見たら、日本海側から、日本列島を越えて太平洋側に吹き出す多数の筋状の雲が写っていました。教科書に出てきそうな程、見事な冬型の気圧配置を表す雲の姿。昨日から今日にかけて、とっても寒くなったのですが、あの気圧配置ならばさもありなんですね。こんなに寒くなったのも当たり前、暦の上では大寒の期間ですしその上本日は日本の最低気温記録の日なんですから。今年も昨日から日本列島はすっぽりと強い寒気に覆われて冷え込んでいますが日本の最低気温を記録した1902年のこの時期には、日本は本当に記録的な大寒波の中にありました。日本の最低気温の記録は1902/01/25に旭川で観測された-41.0℃です。この記録は大変有名で、 100年以上経っても更新されていない大記録です。ついでながら、歴代2位の最低気温の記録も1位の記録の翌日の同年、1/26に帯広で記録されたものです。歴代1位2位の記録を作った大寒波が北日本を襲っていたのでした。

◇1/23は「八甲田山の日」
 一昨日の「今日の記念日」に八甲田山の日と言うのがありました。これは明治35(1902)年の陸軍の冬季軍事訓練中に起こった遭難事故を記念したもので、兵士210名が遭難し、そのうち199名が死亡したという世界的に見ても最大級といえる山岳遭難事故でした。1/23はこの遭難事故に遭った兵士達が出発した日で、これからほぼ十日の間にその多くが亡くなりました。つまり、大寒の期間に起こった遭難事故でした。八甲田山の日の遭難の切っ掛けとなった行軍訓練もおそらくは、大寒という一年で一番寒い時期を狙って行われたものなのではないかと推測しますがよりにもよって、日本の気象観測史上歴代1,2位の低気温を記録したこんな寒い年に行われてしまったというのが、つくづく不幸な巡りあわせでした。北国とは云いにくいですが、元日に起こった震災で大変な状態となっている能登地方は日本海に面して雪の多く、寒いところ。まだ電力や燃料が十分に調達できないところもまだ、多数あると思います。そんな中で避難所生活という方もいらっしゃると思います。辛いでしょうね。出来ることなら厳しい寒さが早く去って、暖かな春がやってきてくれたらいいのに。そんなことを考えながら、本日の暦のこぼれ話は、ここまでとさせていただきます。皆さん、風邪などひきませんように気を付けて暮らしましょうね。

                          (「2024/01/25 号 (No.6326) 」の抜粋文)
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今日(1/25)の夜空に昇る月は【十五夜の月&満月】です [かわうそ@暦]

【重要なお知らせ】
2024/2/24の「満月のお知らせメール」をもちまして、当メールマガジンを終了することにいたしました。長い間、ご購読ありがとうございました。2/24号まではこれまで通り発行を続けます。よろしくお願いいたします。「お月様のお知らせメール」発行者 かわうそ@暦

◆今日(1/25)の夜空に昇る月は【十五夜の月&満月】。
月は日暮れの頃に東の空から昇り、翌日の夜明け頃に西の地平線に沈んでゆきます。新月から数えて15日目の十五夜の月と満月は同じものと考えられがちですが、十五夜と満月が同じ日になる確率は50%以下。今回も、日付で考えると十五夜は1/25、満月は1/26と別の日となります。(今晩昇った月がそのまま満月をむかえますので、夜を単位で考えれば同じ夜の月です)

◆お月様の基礎データ
・月齢: 13.6 (1/25 の正午の値)
・満月の瞬間は 1/26 2時54分 (月齢は 14.2)
 ※満月とは、月と太陽の黄経の角度差が180度となる瞬間です。
・月出:1/25 16時21分 月没:1/26 7時16分 (東京での時刻)
・南中(真南に見える瞬間):1/25 23時52分 (東京での時刻)
・南中時の月と地球の中心距離は 400700 km (平均距離の 1.04倍)。

 月は平均より 15700km遠く、見かけの大きさはいつもより少し小さいです。お月様、見えるでしょうか?見えるといいですね。(「お月様のお知らせメール」の抜粋文)
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ナバナ(菜花)! [ヘッダー画像]

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2024.01.25撮影
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ベコニア ! [ヘッダー画像]

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2023.12.18撮影
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二十四節気の最後、大寒 [かわうそ@暦]

□二十四節気の最後、大寒
 現在、二十四節気の大寒(2024/1/20~2/3)です。大寒は

  冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也

 冷えることの極みで、すごく寒いので「大寒」と呼ばれます。とっても分かりやすい名前です。今年は冬がそんなに寒くならないかななんて思っていましたが、さすがにこの時期になると「やはり冬は寒いものだ」と思わざるを得ません。大寒は、二十四節気のなかでは十二月中(じゅうにがつちゅう)と言うもので、この日を含んだ月を旧暦では十二月としました。

 ※2024/1/11~2/9 が旧暦十二月

◇ちょっと寄り道 ・・・ 二十四節気について
 余談ですが、二十四節気は一年を時間や太陽の位置によって一年を24分したものです。現在は太陽の位置によって決める方式を採っています。二十四節気については時折、次のような質問が寄せられます。

  二十四節気の大寒て、大寒の日だけを指すのですか?

 よく、「今日は二十四節気の大寒です」といった表現をするのでその日一日だけが大寒だと思う方がいらっしゃるようです。これはちょっと違います。二十四節気は、その始まる日(あるいは、その瞬間)を「節」とか「節入り」と呼び、節と次の節までの期間を「気」と呼びます。ですから、今年の大寒の例で云えば

  2024/1/20 ・・・・・ 大寒の節(節入り)
  2024/1/20~2/3 ・・・ 大寒の一気

 ということになります。現在は大寒と云うことで、ここでは大寒を例としましたが、他の二十四節気でも事情は同じ。二十四節気とは区切りの「節」と、その期間の「気」の両方を表す言葉です。両方あわせて節気だと思って頂ければ分かりやすいですね。

◇大寒は二十四節気の最後
 大寒の次の二十四節気はというと立春。立春はその名の通り「春立つ」、春が始まるという意味です。四季の巡りで見た一年を春夏秋冬と言い表すように、日本では伝統的に春を一年の始まりの季節と考えてきました。この考えからすると春の始まりである立春は一年の始まりとも云えます。大寒の次の二十四節気は一年の始まりの立春ですから、大寒は一年最後の二十四節気とになります。大寒は寒くて辛い時期ではありますが、ここを過ぎればもうすぐ春。暖かい春を夢見て二十四節気のこの大寒の一気を耐えて行くとしましょう。そうそう、大寒に対応する七十二候の初候は、

蕗のとう花咲く

寒いけれど、雪の下では植物たちが花咲く準備をはじめているのです。

                          (「2024/01/22 号 (No.6323) 」の抜粋文)
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【深淵に臨んで薄氷を踏むが如し】 [かわうそ@暦]

【深淵に臨んで薄氷を踏むが如し】
(しんえんに のぞんで はくひょうを ふむがごとし))[詩経小雅小旻「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」]深い淵をのぞきこむ時のように、また薄い氷の上を歩く時のように、こわごわと慎重に行動すること。転じて、危険に直面していることの形容。 《広辞苑・第七版》

 元は詩経に登場する言葉ですが、論語にこの言葉を引用している箇所があります。孔子の後継者となった曽子が臨終の床にあるときに弟子達に語りかける箇所です。

  曽子、疾あり。門弟子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云う、
  戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如しと。而今よりして後、吾免るるかな、小子。

 曽先生が病気で重体に陥られ、門人達を呼び集めておっしゃられた。夜具をのけて私の足を見よ、
手を見よ、どこにも傷はないだろう。親が生んでくれたこの身体を無闇に傷つけることのないよう
に、これまでの年月、深淵に臨むかのように、薄氷を踏むかのように注意して生きてきた。
今から後はもうそうした心配から解放される。そうだろう、君たち。

 曽子は孔子から「参や魯」と評された人物です(「参」は曽子の名前)。「魯」は魯鈍(ろどん)のこと、愚かで鈍いという意味です。 先生が弟子を評した言葉と考えるとちょっと酷すぎる気もしますが曽子自身も、自分が他の兄弟弟子達ほど明敏でないことを自覚していて、孔子の教えを自分が独自に発展させようとは思わなかったようです。しかし面白いのは、真面目一途で孔子に魯鈍と評された曽子とその弟子の系統が結局、孔子の学問を世に残すことになったと言うことでしょうか。

 ※孔子 → 曽子 → 子思 → 孟子 という系統。

 曽子が臨終の床で弟子達に詩経の「深淵薄氷」を引いて語ったこの話にしても、親からもらった身体を傷つけないように、いつも気にして戦々兢々として生きてきただなんて、真面目だけが取り柄だ自覚していたと云っても、なんともつまらない、息のつまるような人生じゃないかと、論語を最初に通読した二十歳の頃には思ったものです。ですが不思議なことに、この「つまらない話」が頭の中に引っかかったまま何年経っても記憶の中に残っていました。そして頭の隅に残っているこの言葉を思い出すたび、近頃はなにか暖かなものを感じるようになりました。弟子達に傷一つない手足を見せて、「もう安心してあの世へ行けるよ」という言葉に、愚直に生き通した曽子の人柄と曽子が見続けてきた人生の深淵を垣間見る気がするからでしょうか。臨終の床で「今から後は心配から解放されるよ」と、そんな言葉を残すことがはたして自分に出来るかなんて、考えるようになったからでしょうか。今解ることは、曽子と違って沢山の傷を手足に残している私は、その傷の数以上に親不孝な子であったということだけです。

                           (「2024/01/21 号 (No.6322)」の抜粋文)
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クコ(枸杞)の実 ! [ヘッダー画像]

240121no12.JPG
別名:ウルフベリー、ゴジベリー
2024.01.21撮影
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骨正月 [かわうそ@暦]

■骨正月
 本日は一月二十日、正月の祝い納めの日で二十日正月と呼ばれる日です。本日のお題とした「骨正月」は二十日正月の別名です。この日の早朝には、正月にお迎えしていた神様方が、それぞれの居場所にお帰りになる日と考えられていました。神様方が全てお帰りになりますから、この日には正月の飾り物などは全て片付けて、正月行事を締めくくる日と言われています。もっとも、現代ではこの時期までのんびり正月気分ということはなくなっていると思いますが。

◇骨正月とは?
 正月に鰤(ぶり)を食べるという地域がありますが、そうした地域では正月の晴れの魚である鰤を骨まで残さず食べ尽くしてしまう日ということで、正月行事を終えるこの日を「骨正月」と呼ぶようになったと言われます。魚を食べて最後に残るのは骨と頭と言うことで、骨正月は頭正月(かしらしょうがつ)とも呼ばれるそうです。正月に鰤を食べる風習は関西地方に多く残っていますから、関西出身の方の中には「骨正月」「頭正月」の名前を耳にしたことのある方がいらっしゃるかもしれませんね。

◇ほんとの鏡開きはこの日?
 現在、十一日に行われることの多い鏡開きですが、元来はこの日が鏡開きの日だったそうです。武士の家ではこの日は武家の象徴である、鎧兜・具足に供えたもちを雑煮にして、具足開きなどと呼んだそうです。また二十日(はつか)という言葉にかけて、

   刃柄(はつか)を祝う

 となどと言ったそうです。この鏡開き・具足開きが現在の日付に移動したのは江戸時代の初期のころと言われています。たまたま一月二十日が三代将軍家光の忌み日であったことからこの日に祝い事をすることを避けて十一日に変更したのだとか。正月七日、十一日、十五日と正月終わりの行事はいろいろありますが、いろいろあった正月終いの行事もこの二十日正月でいよいよ打ち止め。多くの正月行事をその日の話の種とし、採り上げさせていただいた暦のこぼれ話でしたから、本日は正月行事を骨までしゃぶり尽くす意味の骨正月の日でございました。話題に困ったときに採り上げてきた正月行事の皆々様(?)には、この場を借りて御礼申し上げて、骨正月の日のこぼれ話を終えることにいたします。お正月行事の皆様、また来年よろしくね!

                          (「2024/01/20 号 (No.6321) 」の抜粋文)
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