SSブログ

2019-02-11 [twitter投稿]



nice!(0)  コメント(0) 

ツバキ(椿)! [ヘッダー画像]

190208no29.JPG
福智山ろく花公園
撮影日:2019.02.08
nice!(1)  コメント(0) 

社会の基盤情報としての暦について [かわうそ@暦]

■社会の基盤情報としての暦について
 上手いタイトルが思い浮かばず、なんだかこのコーナーにそぐわないような固いタイトルになってしまいました(なんか恥ずかしい)。恥ずかしいけど、代案もないので気にせずスタートします。少し前にこのコーナーで採り上げた

「将来の二十四節気の予測は難しい?」http://koyomi8.com/doc/mlwa/201902080.htm

 の補足です。「なんの話だったかな?」という方は、http://koyomi8.com/doc/mlwa/201902080.htmで内容をお読み下さい「将来の二十四節気の予測は難しい?」で、予測が難しい理由は遠い太陽の位置計算が難しいのではなくて、その時使われている時刻を予測するのが難しいからだと書いたことを思いだしていただければ、改めて読み直さずとも問題ありません。さてその中で、天体の位置計算などに用いられる力学時(TD)と私達が生活に用いている地球自転と連動した世界時(UT、通常は整数秒に調整した協定世界時 UTC)とには差(ΔTと呼びます)があると書きました。この力学時の方は一定なのですが、地球の自転運動は案外不規則な変化をしていて、これと連動した世界時を数年先、数十年先まで予測する困難さが、日本の国民生活に用いる暦を所管する国立天文台が、ずっと先までの二十四節気を公表しない理由であるといったことも書いています(国立天文台関係者じゃないので、一般論としての推測ですが)。しかし、予測が難しいと行っても全然判らないということではなくて、1~2秒、予測がずれちゃうかもという程度です。であれば、○○年の二十四節気 ※注意 この年の計算は、ΔT=75秒として行ったものです。御使用にあたってはこの点を考慮し各人の責任において御使用下さい。のようにすれば、いいような気もするように思えます。実際に、「将来の二十四節気の予測は難しい?」を書いた後で、こうしたご意見のメールも頂きました。確かに、一見もっともな意見のようですが、この意見は、「暦」の社会生活において担う重要な役割の一つを見落としています。

◇社会生活において重要な[暦」の役割
 見落としていた重要な役割とはなんでしょうか?それは、一つの社会で使われる暦は一つであるということです。AさんがBさんの間で「春分の日の休みが明けの日の会議で使うので、それまでによろしく」という約束が行われたと考えて下さい。二人は別れた後でそれぞれに手帳のカレンダーで「春分の日」を確認したとします。その時に二人の見た手帳のカレンダーの春分の日が、

  Aさんのの手帳の春分の日 ・・・ 3/21
  Bさんのカ手帳の春分の日 ・・・ 3/20

 と異なっていたら・・・。そしてそれぞれのカレンダーの末尾に小さな文字で「このカレンダーの春分の日、秋分の日は、ΔT=○○秒として計算した春分日と秋分日の日付としています」と書かれていて、この「ΔT=○○秒」がAさんの手帳は70秒で、Bさんの手帳は71秒だった。Aさんの手帳は1年ごとの手帳で去年刊行されたもので、Bさんは3年連用の手帳で、刊行は一昨年だったなんてことがあれば、その1年の間にΔTの予測値が1~2秒くらい変わることはあります(最新の観測値で決定しますから)ので、こうした違いが発生する可能性はあります。たった1秒の差で、日付が変わることなんてあるのか? というと、かなり希なことではあっても、絶対にないとは云えません。また、注意書き[この計算で用いたΔTは・・・」なんて書いてあっても普通の人には何のことやらということになるでしょう。きっと、そんな注意書きは読まれることも無いでしょうね。皆が見るのはカレンダーにある春分の日の日付だけ。AさんのカレンダーもBさんのカレンダーも、天文計算(暦計算)という点で見ると、どちらも間違いでは無いのですが、計算が正しくとも同じ年なのに二つの異なるカレンダーが存在してしまったら、社会生活はかなりやっかいなものになることは想像に難くないことです。社会生活に用いられる「暦」にとっては計算の正しさ云々より、暦が一つしかい無いことなのです。極論としては、たとえ暦学的には計算が間違っていたとしても、日本国内の暦がみんな同じ間違いの結果を載せていれば、社会生活上は問題が無いとも云えます。問題があるとすれば、私のような重箱の隅をつつくような奴が、「なんか変だぞ、今年の暦」なんてタイトルでこのメールマガジンに採り上げるくらいでしょう。こんな事情を考えると「国民生活に用いる暦」に責任を持つ国立天文台は、国民生活に関係しそうな暦情報に関しては、曖昧さを残すような公表のしかたは難しいのです(と、部外者の立場からの推測)。二十四節気は、ほとんどは現在の社会生活にはほとんど関係ないものなのですが、「春分の日」と「秋分の日」という祝日という接点では繋がっていますから、計算上は正しいというだけでは、迂闊に公表はできないのでしょうね。ご苦労、お察しします。もちろん社会生活とは直接関係のない天文学的、暦学的研究として、先々の二十四節気計算は可能ですし、日食などの予報も可能です。学問の世界で用いる暦計算と、社会の基盤情報としての暦の作成とでは、事情が異なるのです。

◇ついでに、私の考える「旧暦の2033年問題」の本質
 社会生活においては、皆が同じ暦を使うことが重要で、極論すれば、その暦が計算の上では間違っていても、それ自体は大きな問題ではないと書きましたが、実際にはどうかというと、それは結構あります。もちろん近年はそんなことはありませんが、旧い暦では計算が合わないことが随分あります。中には、故意に暦をいじっていることも。昨今、耳にすることの増えた「旧暦の2033年問題」。皆さんももちろんご存知のことと思いますが、この問題の議論はともすれば、作暦の技術的問題のように捉えられがちですが、私はそんなことではなくて、責任者の不在が問題の本質だと考えています。計算の結果がどうであろうが、来年の暦はこれで決定!と決定できる権限と責任を持った人、機関があればそれでよいのですが、これがないということが、この問題の本質なんです。残念ながら旧暦は法的には既に廃止された暦です。ですから、これを管理する権限、責任を持った人や機関は存在しません。ですから、従来の約束事どおりでは矛盾する暦が出来てしまって、矛盾を解決する方法が複数ある場合に、「これで決定!」といえる人がいません。だからといって、今さら「旧暦を所管する機関」を法律で決めるなんてことは、有り得ないでしょうから解決しないですね。A案がいいとかB案がいいとか、その長短を論じてみても、万人が皆納得するってことは無いですから、結論は出ない。万人は無理だから 9,900人が納得する辺りで手を打ちませんかという結論になるのでしょうね。ただ、こうなっても残り 100人が別の方式の旧暦を作っても、「間違い」とはいわれません。現代においては、旧暦は単なる私暦の一つですから。来年の暦はこれで決定!現代の暦については、こう言ってくれる国立天文台があってよかった。そして、そう言える人や機関がなくなった旧暦は、しばらくは面倒くさい、そして的外れな(私からすれば)議論が続くことになりそうです。(「2019/02/11 号 (No.4517) 」の抜粋文)


nice!(0)  コメント(0) 

KAGAYA (@KAGAYA_11949) [twitter投稿]




nice!(0)  コメント(0)