2019-10-20 [twitter投稿]
hippocampus460おはようございます!6時起床、天気 /欠けていく凸月(6時26分、輝面比69%)視認できず。今日は宵月、月齢21.2。月の入:12時08分、月の出:22時21分です(北九州) /今朝は霧発生!何も視えません!空も一面グレー一色… https://t.co/P27wS67cZE10/20 06:58 hippocampus460『KAGAYA (@KAGAYA_11949)』hippo@home|https://t.co/g9rIEVcm1910/20 08:15 hippocampus460『旧暦時代の暦日の区切りは何時?』hippo@home|https://t.co/AvsGC1fNyD10/20 08:25 hippocampus460『【木通】(あけび)』hippoの菜園|https://t.co/UUVJJQ1EX310/20 08:29 hippocampus460『ジュズサンゴ(数珠珊瑚)!』hippo@home|https://t.co/4I3Aq16Xyq10/20 17:13 hippocampus460日中、晴れ。PM2.5のレベルは8(5→8)、AQI:良い /午前中、花公園に出かける。日曜日だったので常連さんの皆さんに会うことが出来た。園内を一周するが収穫なし(´・ω・`) 茶店で常連さんとしばらく談笑して帰宅する。10/20 17:31 hippocampus460ゲンノショウコ/花びらに傷があったが健気に咲いていた。 https://t.co/JK13teiQfg10/20 17:34 hippocampus460八重のシュウメイギクです! https://t.co/WFOvJtR0vN10/20 17:36 hippocampus460ヤブランの実です! https://t.co/l9IkYvdgAF10/20 17:36
旧暦時代の暦日の区切りは何時? [かわうそ@暦]
□旧暦時代の暦日の区切りは何時?
先日、旧暦の暦月の日数の話を書来ました。「月」があれば、当然「日」もありますよね・・・ということで、本日は旧暦という暦の日の区切りについての話を書いてみることにしました。
◇江戸の町の一日は明け六ッに始まる?
「江戸時代の一日の始まりは夜明けだった」という話を耳にすることがあります。さてどうでしょうか?時代劇や古典落語の世界でよく聞く昔の時刻には、九ッとか八ッというのがあります。
「今何時(なんどき)だい?」
「へぇ、九ッ(ここのつ)で」
といった具合に使われたものです。この数字を使った時刻の不思議なことは、昼と夜の長さの違いで、その長さが変化するという点です。昼と夜の区切りはそれぞれ明け六ッ(あけむつ)、暮れ六ッ(くれむつ)と呼ばれて、この区切りで区切った昼の長さを昼に属する六ッ、五ッ、四ッ、九ッ、八ッ、七ッの六つに均等にわけて昼の時刻の間隔を決め、夜も同様に、夜に属する六ッ、五ッ、四ッ、九ッ、八ッ、七ッに分けて夜の時刻の間隔を決めるというもの。ですから、同じ九ッでも昼九ッと夜九ッでは長さが違い、その上季節によってもそれぞれの長さが変わるというものでした(夏は昼が長く、冬は夜が長い)。これは江戸時代に使われた長さの変わる時刻法、不定時法の一種です。この昼と夜の区切りに当たる明け六ッと暮れ六ッの始まりですが、昼と夜の始まりだから、日の出と日の入りの時刻だろうと思うと、さにあらず。朝なら空が白んであたりの風景が見え始める瞬間、夜なら夕方の空に明かりで見えていた町並みが見えなくなる瞬間とでも申しましょうか(今なら、薄明とか薄暮といわれる薄明かりの時間帯の始まりと終わりのことです)。江戸時代の人々にとっては、その生活活動は明け六ッに始まり、暮れ六ッには終わって家に帰り、あとは夕飯食べてさっさと寝ちゃうというのが基本パターンだったと思われます。ということで、「江戸時代の一日の始まりは夜明けだった」と考えられるようになったわけです。
◇暦日の始まりも「明け六ッ」?
さて、江戸の人々の日常の一日の話をしたところで、次は残念なお知らせ。それは、暦の上の一日の始まりは、こんな江戸の人々の生活常識とは異なっていたということです。日本できちんとした暦が使われるようになったのは六世紀末頃と考えられます。当時は中国から輸入した暦をそのまま使用していた時代ですが、この時代からそれ以降ずーっと日本の暦の日付の区切りは
正子 (しょうし ・・・ 「子の正刻」の意味)
今で云うところの夜の零時でした。あれれ、現在と同じか(時刻が平均太陽時か視太陽時かとか、計算の基準も現在とは異なると言った細かな違いはありますが、この点は省略)。ちなみに「正子」は先に説明した「夜九ッ」の始まりにあたります。公的な行事、記録はこの正子で区切った日付によって為されるのが基本。もちろん暦月の区切りもこの正子で区切られた日付の変わり目に従って切り替わります。この辺の話は「日本では昔からそうだった」というより、日本が暦を学んだ中国が昔からそうしていたので、習った日本も当然のように、そうなってしまったわけです。
◇使っている方も混乱していた?
さて、暦日の区切りはずっと正子だったという話をしました。これは「暦を作る側の常識」であったのは間違いないのですが、暦を使う側までこの常識が浸透していたかというと、どうもそんなことは無かったようです。江戸時代に生きた人たちも結構このあたりは混乱して使っていたようで、暦の上では日付が変わったはずの正子(夜九ッ)~明け六ッ前に起こった事の記録を、前日の日付で記入しているということがかなりあったようです。江戸時代の学者として有名な本居宣長は細かなことが気になる人だったらしく、もし自分が亡くなった時刻が正子以降であったら、日付が変わっているので命日を間違えることがないようにといった注意書をわざわざ書いて残しています。わざわざこんなことを書き残こしていたということは裏を返せば、それほどよく間違えられていたいう証拠でもありますね。古文書に記された日付にはこうした誤りが、結構混じっているようです。「日付なんて当たり前のことを書き間違えるはずはない」なんて思いこんで古文書の日付を鵜呑みにすると有りもしない「歴史のミステリー」を作り出してしまうことにもなりかねません。
日付は、 真夜中の正子(≒深夜の零時)に切りかわる
実は旧暦の時代も、この現代の考え方と基本は変わっていなかったという本日の暦のこぼれ話でした。(「2019/10/20 号 (No.4768)」の抜粋文)
先日、旧暦の暦月の日数の話を書来ました。「月」があれば、当然「日」もありますよね・・・ということで、本日は旧暦という暦の日の区切りについての話を書いてみることにしました。
◇江戸の町の一日は明け六ッに始まる?
「江戸時代の一日の始まりは夜明けだった」という話を耳にすることがあります。さてどうでしょうか?時代劇や古典落語の世界でよく聞く昔の時刻には、九ッとか八ッというのがあります。
「今何時(なんどき)だい?」
「へぇ、九ッ(ここのつ)で」
といった具合に使われたものです。この数字を使った時刻の不思議なことは、昼と夜の長さの違いで、その長さが変化するという点です。昼と夜の区切りはそれぞれ明け六ッ(あけむつ)、暮れ六ッ(くれむつ)と呼ばれて、この区切りで区切った昼の長さを昼に属する六ッ、五ッ、四ッ、九ッ、八ッ、七ッの六つに均等にわけて昼の時刻の間隔を決め、夜も同様に、夜に属する六ッ、五ッ、四ッ、九ッ、八ッ、七ッに分けて夜の時刻の間隔を決めるというもの。ですから、同じ九ッでも昼九ッと夜九ッでは長さが違い、その上季節によってもそれぞれの長さが変わるというものでした(夏は昼が長く、冬は夜が長い)。これは江戸時代に使われた長さの変わる時刻法、不定時法の一種です。この昼と夜の区切りに当たる明け六ッと暮れ六ッの始まりですが、昼と夜の始まりだから、日の出と日の入りの時刻だろうと思うと、さにあらず。朝なら空が白んであたりの風景が見え始める瞬間、夜なら夕方の空に明かりで見えていた町並みが見えなくなる瞬間とでも申しましょうか(今なら、薄明とか薄暮といわれる薄明かりの時間帯の始まりと終わりのことです)。江戸時代の人々にとっては、その生活活動は明け六ッに始まり、暮れ六ッには終わって家に帰り、あとは夕飯食べてさっさと寝ちゃうというのが基本パターンだったと思われます。ということで、「江戸時代の一日の始まりは夜明けだった」と考えられるようになったわけです。
◇暦日の始まりも「明け六ッ」?
さて、江戸の人々の日常の一日の話をしたところで、次は残念なお知らせ。それは、暦の上の一日の始まりは、こんな江戸の人々の生活常識とは異なっていたということです。日本できちんとした暦が使われるようになったのは六世紀末頃と考えられます。当時は中国から輸入した暦をそのまま使用していた時代ですが、この時代からそれ以降ずーっと日本の暦の日付の区切りは
正子 (しょうし ・・・ 「子の正刻」の意味)
今で云うところの夜の零時でした。あれれ、現在と同じか(時刻が平均太陽時か視太陽時かとか、計算の基準も現在とは異なると言った細かな違いはありますが、この点は省略)。ちなみに「正子」は先に説明した「夜九ッ」の始まりにあたります。公的な行事、記録はこの正子で区切った日付によって為されるのが基本。もちろん暦月の区切りもこの正子で区切られた日付の変わり目に従って切り替わります。この辺の話は「日本では昔からそうだった」というより、日本が暦を学んだ中国が昔からそうしていたので、習った日本も当然のように、そうなってしまったわけです。
◇使っている方も混乱していた?
さて、暦日の区切りはずっと正子だったという話をしました。これは「暦を作る側の常識」であったのは間違いないのですが、暦を使う側までこの常識が浸透していたかというと、どうもそんなことは無かったようです。江戸時代に生きた人たちも結構このあたりは混乱して使っていたようで、暦の上では日付が変わったはずの正子(夜九ッ)~明け六ッ前に起こった事の記録を、前日の日付で記入しているということがかなりあったようです。江戸時代の学者として有名な本居宣長は細かなことが気になる人だったらしく、もし自分が亡くなった時刻が正子以降であったら、日付が変わっているので命日を間違えることがないようにといった注意書をわざわざ書いて残しています。わざわざこんなことを書き残こしていたということは裏を返せば、それほどよく間違えられていたいう証拠でもありますね。古文書に記された日付にはこうした誤りが、結構混じっているようです。「日付なんて当たり前のことを書き間違えるはずはない」なんて思いこんで古文書の日付を鵜呑みにすると有りもしない「歴史のミステリー」を作り出してしまうことにもなりかねません。
日付は、 真夜中の正子(≒深夜の零時)に切りかわる
実は旧暦の時代も、この現代の考え方と基本は変わっていなかったという本日の暦のこぼれ話でした。(「2019/10/20 号 (No.4768)」の抜粋文)
KAGAYA (@KAGAYA_11949) [twitter投稿]
アイスランドの星の動き。
— KAGAYA (@KAGAYA_11949) October 19, 2019
北極星が日本で見るより高い位置にあります。
緑の光は淡いオーロラです。写真では鮮やかな色に写りますが肉眼では白っぽく見えます。
(先日撮影) pic.twitter.com/8HHslhb8d7