2020-01-16 [twitter投稿]
hippocampus460ラナンキュラス - 絵画風 https://t.co/mw7axBQ6CM @hippocampus460さんから01/15 17:48 hippocampus460『KAGAYA (@KAGAYA_11949)』hippo@home|https://t.co/kiPC8b99jw01/15 23:43 hippocampus460おはようございます!7時起床、天気 /欠けていく凸月(7時24分、輝面比70%)視認できず。今日は宵月、月齢20.6。月の入:11時14分、月の出:23時35分です(北九州) /今朝の空は一面グレー一色です。福智山は視えます!… https://t.co/j6pKBTxG2K01/16 07:32 hippocampus460『節供は旧暦の日付が正しいの?』hippo@home|https://t.co/C2C48gviaW01/16 11:24 hippocampus460『マーガレット!』hippo@home|https://t.co/6wHaOurEMN01/16 17:29 hippocampus460日中、曇り空続く。寒かった!(>_<。) PM2.5のレベル16(15→16)、AQI:平常 /午前中、PC作業と録り溜めたビデオ観る。昼食後は積ん読本を読む。退屈な一日でした ( ´Д`)=301/16 17:43
節供は旧暦の日付が正しいの? [かわうそ@暦]
□節供は旧暦の日付が正しいの?
少し前、1/7に五節供の初めの節供、人日の節供がありました。この節供のことでは、「節供は旧暦の日付で行うのが正しいのではないか」といった内容の御質問というか、ご指摘を時々いただきますので、本日はこの件について考えてみることにします。
◇五節供はいつ?
人日の節供は、五節供といわれる5つの節供の最初を飾る節供です(その割には知名度が今一つ、二つ足りません。別名の「七種の節供」の方で知られているかな?)。五節供とは、
人日の節供 (一月七日。別名「七種の節供」)
上巳の節供 (三月三日。別名「桃の節供」「雛祭り」など)
端午の節供 (五月五日。別名「菖蒲の節供」)
七夕の節供 (七月七日。別名「笹の節供」)
重陽の節供 (九月九日。別名「菊の節供」「刈り上げの節供」など)
です。人日の節供は、一月一日の元日に押し出されたのか、一つだけ他と異なって、月と日が同じ数字にはなっておりませんが、その他の4つをご覧いただければ分かるとおり、節供は月と日が同じ日付(しかも奇数)の日となっています。これは、月と日が同じになることは目出度いという「重日(ちょうじつ)思想」という考えに基づきます。奇数ばかり選ばれるのは奇数を「陽の数字」と考えたからです。ずーっと昔に遡ると、「上巳の節供」や「端午の節供」の名前に遺るように「○○月の初めの△の日」となっていたのです(上巳は、上旬の巳の日)が先に説明した重日思想と結びついて、現在のような形になりました。重日思想と結びついたのは、中国の三国志の時代(魏・呉・蜀の三国鼎立時代)といいますから、現在のような形になってからすでに、二千年に近い歴史をもっています。月と日が同じ日付の日というのは覚えやすくて便利です。元来節供というものは、一年の節目節目に、その身を清めて農作業を始めたり、収穫に感謝するといった行事です。社会共同体の祭りのようなものですから、その共同体を構成するものが皆一斉に行うことが重要です。そうした意味から考えるとみんなが覚えやすい日付であるということは、大変重要なことです。
◇さて、旧暦か新暦か?
ここでおわかりのように、節供で問題になっているのは日付です。確かに、旧暦時代はその日付は旧暦によって行われていましたが、それは当たり前のことです。だって、その時代の暦といえば旧暦しかなかったわけですから。そして、旧暦の日付で二千年以上も続けられてくると、旧暦の日付の頃に手に入りやすい、祭事植物と結びついて「桃の節供」だとか「菖蒲の節供」のような別名が生まれました。「七種の節供」も七種類と数は多いですけれどある季節に手に入る植物との結びつきという点ではこの一種といえるでしょう。この後から生まれた別名からすると「人日の節供、七種の節供は春の七草が野に生える季節に行われるべきだろう」という考えが生まれます。しかしこれは「暦」という観点からみると少々おかしな話です。生まれを考えれば日付ありきだったわけで、植物と結びついたのは節供が生まれた後からです。旧暦時代の人が旧暦の日付で祝うのは当然ですが、新暦を使いながら、これだけは旧暦の日付でというのは現代の考えであって、旧暦時代からの「伝統的な考え」などではないのです。もっとも、年中行事として先にあげたように二千年も行われて、日付以外の様々な風物と結びついて現在に至っているので、そうした点では確かに新暦の日付との間に齟齬があるようにも見えますけれど。しかし、上巳の節供、端午の節供、七夕の節供など、現在も広く行われている節供行事を新暦の日付で行われるところが次第に増えて、現在ではおそらく過半数となって来ているところを見ると、様々な問題はあっても「覚えやすい日付」で行われるという昔の姿に戻りつつある気がします。もちろん、旧暦の一月七日(2020年なら新暦では1/31)を「旧暦では今日が人日の節供」といって祝うことに何の異論もありません。だからといって節供は旧暦の日付で行うのが正しいともは思いませんが。古くからある行事は、すべて旧暦の日付が正しいという考えは、物事の一面だけを見た短絡的な考えだと思います。節供の意味は、一年の節目節目で共同体を構成するもの皆が、その日を意識し、身を清めて自然の恵み等々に感謝するためのものです。新暦を日常に使う時代が長く続けば、やがて新暦の日付の節供に何の違和感も覚えない時代がやって来るのではないでしょうか。今はまだ、その途上にあるということで、混乱が生じているだけだと、私は考えています。(「2020/01/16 号 (No.4856)」の抜粋文)
少し前、1/7に五節供の初めの節供、人日の節供がありました。この節供のことでは、「節供は旧暦の日付で行うのが正しいのではないか」といった内容の御質問というか、ご指摘を時々いただきますので、本日はこの件について考えてみることにします。
◇五節供はいつ?
人日の節供は、五節供といわれる5つの節供の最初を飾る節供です(その割には知名度が今一つ、二つ足りません。別名の「七種の節供」の方で知られているかな?)。五節供とは、
人日の節供 (一月七日。別名「七種の節供」)
上巳の節供 (三月三日。別名「桃の節供」「雛祭り」など)
端午の節供 (五月五日。別名「菖蒲の節供」)
七夕の節供 (七月七日。別名「笹の節供」)
重陽の節供 (九月九日。別名「菊の節供」「刈り上げの節供」など)
です。人日の節供は、一月一日の元日に押し出されたのか、一つだけ他と異なって、月と日が同じ数字にはなっておりませんが、その他の4つをご覧いただければ分かるとおり、節供は月と日が同じ日付(しかも奇数)の日となっています。これは、月と日が同じになることは目出度いという「重日(ちょうじつ)思想」という考えに基づきます。奇数ばかり選ばれるのは奇数を「陽の数字」と考えたからです。ずーっと昔に遡ると、「上巳の節供」や「端午の節供」の名前に遺るように「○○月の初めの△の日」となっていたのです(上巳は、上旬の巳の日)が先に説明した重日思想と結びついて、現在のような形になりました。重日思想と結びついたのは、中国の三国志の時代(魏・呉・蜀の三国鼎立時代)といいますから、現在のような形になってからすでに、二千年に近い歴史をもっています。月と日が同じ日付の日というのは覚えやすくて便利です。元来節供というものは、一年の節目節目に、その身を清めて農作業を始めたり、収穫に感謝するといった行事です。社会共同体の祭りのようなものですから、その共同体を構成するものが皆一斉に行うことが重要です。そうした意味から考えるとみんなが覚えやすい日付であるということは、大変重要なことです。
◇さて、旧暦か新暦か?
ここでおわかりのように、節供で問題になっているのは日付です。確かに、旧暦時代はその日付は旧暦によって行われていましたが、それは当たり前のことです。だって、その時代の暦といえば旧暦しかなかったわけですから。そして、旧暦の日付で二千年以上も続けられてくると、旧暦の日付の頃に手に入りやすい、祭事植物と結びついて「桃の節供」だとか「菖蒲の節供」のような別名が生まれました。「七種の節供」も七種類と数は多いですけれどある季節に手に入る植物との結びつきという点ではこの一種といえるでしょう。この後から生まれた別名からすると「人日の節供、七種の節供は春の七草が野に生える季節に行われるべきだろう」という考えが生まれます。しかしこれは「暦」という観点からみると少々おかしな話です。生まれを考えれば日付ありきだったわけで、植物と結びついたのは節供が生まれた後からです。旧暦時代の人が旧暦の日付で祝うのは当然ですが、新暦を使いながら、これだけは旧暦の日付でというのは現代の考えであって、旧暦時代からの「伝統的な考え」などではないのです。もっとも、年中行事として先にあげたように二千年も行われて、日付以外の様々な風物と結びついて現在に至っているので、そうした点では確かに新暦の日付との間に齟齬があるようにも見えますけれど。しかし、上巳の節供、端午の節供、七夕の節供など、現在も広く行われている節供行事を新暦の日付で行われるところが次第に増えて、現在ではおそらく過半数となって来ているところを見ると、様々な問題はあっても「覚えやすい日付」で行われるという昔の姿に戻りつつある気がします。もちろん、旧暦の一月七日(2020年なら新暦では1/31)を「旧暦では今日が人日の節供」といって祝うことに何の異論もありません。だからといって節供は旧暦の日付で行うのが正しいともは思いませんが。古くからある行事は、すべて旧暦の日付が正しいという考えは、物事の一面だけを見た短絡的な考えだと思います。節供の意味は、一年の節目節目で共同体を構成するもの皆が、その日を意識し、身を清めて自然の恵み等々に感謝するためのものです。新暦を日常に使う時代が長く続けば、やがて新暦の日付の節供に何の違和感も覚えない時代がやって来るのではないでしょうか。今はまだ、その途上にあるということで、混乱が生じているだけだと、私は考えています。(「2020/01/16 号 (No.4856)」の抜粋文)